カテゴリー : 過去のブログより

過去のブログより~電気のABC

3.11以来、脱原発の流れは増水時の滝のようです。
既得権の岩に向かって、ガンガン流れがあたっているごときです。
「涓滴(けんてき)岩を穿つ」という言葉がありますが、小さなしずくもいつか岩に穴をあけるのかもしれません。
私は、原子力発電そのものを否定したことはありませんが、必然的に発生する核のゴミを処理できない限り、推進すべきではないという立場でした。
ゴミ処理を考えないで、快楽だけを享受しようという人たちの真意を疑っておりました。
普通の人だったら、あんな危なっかしい核のゴミをほったらかして平気でいられるはずはないのですが。


何なのでしょうね、金に目がくらんで真実が見えなかったのでしょうか。


さて、過去のブログで、原子力を書いたものはなかったかなと探したら、2001年にありました。
今日は、それを紹介。
タイトルは「電気のABC」、本文にもありますが、電気のイロハを教える番組。
朝日放送(ABC)で流れていたので、タイトルも「電気のABC」になったのだと思われます。
では、お読みいただこう。
I’ll come back soon,so don’t go away.

2001-6-7 19:50
昔のテレビ番組の題名である。
関西電力提供で朝日放送(ABC)が放送していた。
出演は泉田行夫さん。
元NHKのアナウンサーで後に大阪芸大教授にもなられた人。何を隠そう私も泉田先生からアナウンスメントを教えられたひとりだ。
芥川の「蜘蛛の糸」とか伊丹十三の「女たちよ」などを教材にして、朗読を習ったりしたわけだが、その暖かい声質は余人に代えがたいものがあった。
95年に亡くなられた。今も時々思い出すたびに、若き自分の身の程知らずな野望が記憶として蘇ってくる。
申し訳ないですね、こんな私になってしまって。
話を元へ戻す。
「電気のABC」は電気の啓蒙番組という位置付けであったと思う。
電気はどういう風に作られるのか、こういう使い方は危険、新しい電気器具のお知らせ等々。
その中で、泉田行夫さんはこうおっしゃっていた。
「電気はまだまだふんだんにあります。どんどん皆さんも使って下さいね。」
水力と火力発電の割合が半々の頃だだったと思う。
もちろん、原子力などというものは実用化されていない。
一杯あるからどんどん使え、これを浪費のすすめなどと思わないでもらいたい。
「御飯はいくらでもあるから、どんどんお代わりしてね。」という母の言葉でもあるのだ。
やっと御飯が各家庭に供給できるようになった。だから、もう遠慮しなくてもいいんだよ、そういうメッセージだ。
電気もそう。
簡単に停電していた時代だ。まだヒューズを交換していた時代でもあるし、天井の電球に三つ又ソケットを差し込んで、たこ足配線で電気を使っていた頃の話だ。


今では泉田先生の「電気は余っているからどんどん使え」というメッセージはとんでもない戯れ言になるだろう。
原子力発電に依拠する我々の文明生活は正しいのかと論議される時代となった。
パラダイムが変わってしまったのだ。そして、又次のパラダイムが始るのかもしれない。
昨日この欄でとりあげた、サントリーの天気予報で思い出した番組だ。
ついでにNHKの番組「ケペル先生の、何でも考え、かんでも知って、何でもかんでもやってみよう」でおなじみの(?)「ものしり博士」も思い出したのだが、その話はまたいつかすることにしたい。
雷の光を見ながらふと書きはじめた、今日のペンギン・ノートでした。



本文にもあるとおり、パラダイムが変わり始めたのを感じます。
「原子力しかない、安全だ、大丈夫だ」 → 「原発は怖い。安全なはずはない」
このパラダイム・シフト、もはや止めることはできないのではないでしょうか。
しかし、「電気はふんだんにあります、どんどん使ってくださいね」というメッセージは「ご飯、一杯あるから、どんどん食べてね」という母親の言葉でもあるというのは、私のような世代の人間には理解できますが、飽食の時代に育った人にはどうなんでしょうね。


なお、最後にある「ペンギンノート」というのは、私の書き込みの総称。
当時は、まだブログという言葉は一般化されていませんでした。
「サントリーの天気予報」には楠トシエさんの歌による天気予報番組。
詳しいことは後ほどこのブログで紹介します。

http://music.yahoo.co.jp/lyrics/dtl/KAA052192/AAA140852/





過去のブログより~惑星ソラリス

今日は2002年の書き込みから。
ソ連の偉大なる映画監督、アンドレイ・タルコフスキー(1932年4月4日-1986年12月29日)の話。
最後の作品「サクリファイス」は、大阪の小さな映画館で見たが、本当に感涙ものだった。
バッハの「マタイ受難曲」、低く流れる「キリエ~」の合唱は、存在の深部でずっと共振しているはず。
興味のある人もない人も、お読みいただければ幸甚。

2002-10-25 23:36
今日の更新は、「バッハのオルガン小曲集~われ、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」を聞きながら書いている。


と大層に書いたけど、早い話「惑星ソラリス」の映画音楽を聞いているだけだ。


「惑星ソラリス」というのは、ソビエトの映画監督アンドレイ・タルコフスキー(後にイタリアに亡命)のSF大傑作映画。
いや、タルコフスキーの作品をSFなどというと、申し訳ないかもしれない。
タルコフスキー芸術というべきもので、そんな小さなジャンルに押し込められるものではない。(ジョージ・ルーカスとは質が違うのだ)
惑星ソラリス自体は、ポーランドのSF作家、スタニスラフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」を原作としているためSF作品と受けとめられるのはしかたがないかもしれない。


しかし、最初の画面にロシア語でソラリスとだけ出て、後はこのバッハの音楽が流れ、川面にたゆたう水藻がずーと映っているなんて、とてもじゃないが、スターウォーズのオープニングとはダンチなのである。


正直、私は最初にこの「惑星ソラリス」を見て以来、完璧にタルコフスキーにはまり(そんな人一杯いたろうな)、当時存在した大阪北浜の三越劇場が大々的にタルコフスキー全作品上映シリーズを企画したこともあって、彼の全作品を観賞することができた。(東京では、同じ頃岩波ホールで上映していたようだが。)


「アンドレイ・ルブリョフ」という映画を見た時は、何ともいえないスケールと深さを感じたものだ。
14世紀のロシア最高のイコン(聖像画)画家を描いた作品なのだが、当時のロシアの知識なんか全く何も持たずに見た為か、そこで描かれている世界が中途半端にしかわからない。
それでも、凄いなあと思わせたのは、やはり監督の目の位置が遥かに高く、遥かに深いからかもしれない。


タタール人がロシアを縦横無尽に侵略する場面の描写も又凄い。
よく、ヨーロッパを侵略するモンゴル軍やフン族などを、単なる野蛮な連中と描きそうなものだが、タルコフスキーはそうは描いてないのがユニークだ。
ロシアより、むしろ進んでいる民族のような描かれ方をしていたりする。
ロシアは、ただ腐敗するばかりの王朝という表現のしかただった。(といっても、この映画、ビデオでも出ていたはずだが、そんじょそこらでは手に入らない。一回しか映画で見たことがないので、記憶が間違っていたらごめんなさい。)


惑星ソラリスの話をしようと思っていたら、「アンドレイ・ルブリョフ」の話になってしまった。
ソラリスで凄いのは、タルコフスキーが未来の都市空間を描くのに、日本迄やって来て、東京の高速道路をそのまま使ったというところだ。

えー!これが未来社会かい!

毎日、走っているトンネルの多い首都高、そこを車はどんどん走って行く。
前に、どこぞで見たようなタクシーも走っている。
字は日本語。
いったい、未来では日本語も普通に使われているのか?
これを見たソ連の観客は違和感はなかったのだろうか?
ま、日本語なんて、彼等からすれば単なる記号にしかすぎないのかもしれないが。


映画は72年の作品だが、日本上映は77年だという。
5年間も一体、このフィルムどこに置いてあったのだろうか。


タルコフスキーのこと書き出すと、どんどんオタク化しそうだ。
知らない人にとっては、くそ面白くもない更新になったかもしれない。


タルコフスキーの遺作は「サクリファイス」という。
文字通り、自分を犠牲にして、核戦争で滅びる世界を救う話。
この映画にもバッハの曲が使われていた。

バッハのマタイ受難曲である。

ということで、今、曲を変えた。
皆さんには聞こえてないだろうが、今、バイオリンの悲しい音色が私の耳にかぼそく聞こえている。


しかし、この映画の長回しには実に感心した。
タルコフスキーは本当に長回しが好きな監督だった。

「ノスタルジア」でも・・・等と書いて行くと、ますますオタオタ地獄に陥りそう。

ま、今日は私の趣味的世界にちょっとおつきあいいただいたということで。





過去のブログより~携帯電話にはノーブルさがない

今日も時間がないので、10年前のダイアリーから「携帯電話」についての話を。
携帯電話には、知も美も感じられない~というのは確かにそうなのだが、スマートフォンには何か違うものを感じるなあと今の私は思います。
とにかく10年前の話、ちょっとした過去のデータとしてお読みください。

2001-12-3 21:22

電車の中で、若い人はたいていコンパクトを見るように、携帯電話を見つめている。
たまに、親指でごそごそ。
メールを打っているのだろう。
大きな声で電話されるよりもましだが、その行為にあまり知性を感じないのは何故なんだろうか。


これが、本や雑誌を読んでいるとしたら、ちょっと知的なイメージもあったりする。(漫画とかゴシップ誌とかは別だが)
携帯電話を使う行為にはノーブルさがない。
何故なんだろう?
ゲームボーイで遊んでいるのと同じイメージだ。
そこにあるのは、動の形。
読書しているのは、静の形。
知のイメージは静の形と対応しているのかもしれない。
動いているものには、遊のイメージはあっても知のそれはない。


日本の美は動かないものの中に潜む。
携帯電話は動き過ぎる。それゆえ、そこには美はない。知もない。


動かないイメージの携帯電話なんて存在するだろうか?


知と美を重んじる人には、携帯電話そのものが忌避する対象かもしれない。
電話というコミュニケーション手段が嫌いと言う人も多いはずだ。
電話には知も美もないとも言う。
不思議と、インターネットは忌避されない。
インターネットには知も美もあるらしい。


言葉が口から出る時には、言霊が一緒に出て行く。
インターネットはどうだろう?
文字からは、言霊は産まれない。
それを口に出して読んだ時、初めて弾けるように外へ出て行く。
まるで、添付書類をあけると飛び出すウィルスのようだ。


私は、携帯電話をもちろん持っている。
便利なものだと思う。
ただ、コミュニケーションの中心に携帯電話を置こうとは思わない。
社会生活を円滑に行う為のツールのひとつとしてしか意識していない。
魔法のリモコンになってほしいとも思わない。
そうなったら、なくした時の衝撃度に耐えられなくなるだろう。


写真をとりたいとも思わない。
携帯のメルトモもほしくない。
お前はただの電話だ、でしゃばるな。


出しゃばる携帯電話。出しゃばらせるユーザー達。


そろそろ私の携帯電話も更新時らしい。
はて、どうしたらよいか、と考え中の今日この頃である。
あなたの携帯はどうだろうか?




知的に見える携帯電話って、欲しくありませんか?



つまり、手をせわしなく動かしている姿を、日本的な様式美がないと語っているのだろう。
しかし、今のようなネット端末としてのスマートフォンというのは、全くイメージされていないのも事実。
そういう意味では、スティーブ・ジョブスが様式美に拘ってiPhoneを作り上げた理由がよくわかるような気がするのだが。