カテゴリー : プロデューサー論

プロデューサーって何?(第4回)~ディレクター論

放送局では、一つの出世コースとしてディレクター⇒プロデューサーというのがあった。
ディレクターを何年間か勤めれば、次にプロデューサーとなって後進を指導するみたいな話だった。
私としては、何か変な話だった。
例えば、映画の世界ではディレクターは監督である。
現場の最高責任者というか、その人の指示一つで、映画のすべてが決まるといわれている。
監督を何年か勤めれば、プロデューサー(制作)になるわけではない。
もちろんそういう例は珍しくはないが、名監督は結局どこまでも名監督であり、名プロデューサーとは言われない。


舞台の世界では、ディレクターは演出家である。
これも演出を何年かやればプロデューサーにという話ではない。
劇団四季の浅利慶太氏の例はあるが、演出家は一生演出家であると考えてよいだろう。
放送局だけが、何故にディレクターを勤めていたものが、ある年齢になればプロデューサーにならないといけないのだろう。


ディレクターは、番組を作る時は精神的な集中力が要求される。
今の時間をすべて番組を完成させることに使われる、それゆえその後の疲労度は激しい。
プロデューサーは、番組の制作が始まれば、ある意味邪魔者である。
ディレクターに指示することなど、基本的にやるべきではない。
ディレクターの集中心を邪魔しないよう、その環境を守ることに力を注ぐべきだ。


最高に能力を発揮できる場を維持するのが、プロデューサーの役割だ。
それはディレクターだけではなく、出演者も、スタッフも、また関係する全ての人々も安心して集中できる環境を作ること。
そんな環境をかき乱すような、愚かしい指示をするプロデューサーもいる。
特に若い、なんちゃってプロデューサーによく見られることだ。
プロデューサーは、野球でいえばキャッチャーみたいなものだ。
全体がうまく配置され、安心して守備できるようにコーディネイトする才覚が要求される。


プロデューサーがピッチャーになってどうする?
プロデューサーが、口うるさいコーチになってどうする?
そんな現場のことに一々口をはさむなら、プロデューサーなんかやらないで、ディレクターになれ。
ディレクターより、自分のほうが能力があるとでも思っているのか。
プロデューサーが戦うフィールドは、そんな場所ではない。


すべての関係者が最大の力を発揮できる環境を作る、それができなければプロデューサーなんて名前を自分につけるな。
ディレクターの延長にプロデューサーがいるのではない。
それを繰り返し私は主張しておきたい。




プロデューサーって何?(第3回)~若いプロデューサー

最近のラジオ局では、若いプロデューサーが増えているという。
番組の制作をほとんど制作会社(あるいはフリーのディレクター)に外注するというシステムが蔓延し、もはや社員ディレクターは稀有な存在になっているらしい。
つまりは、現場の丁々発止的世界から疎外されたまま、管理優先の世界に若い時から封じ込められてしまうことになるようだ。


何度も書くが、そんなことで斬新で画期的な番組なんか生まれるだろうか。
ディレクターというのは、ある意味職人的な要素も必要になってくる。
いわゆる熟練した腕を持つディレクターであるからこそ、業界で尊重されるのだ。
あの人に任せておいたら間違いない、きっと何とかしてくれる、そういう専門家である。
若いプロデューサーに、その専門家の意識が理解できるだろうか。
下手をすれば、振り回されるだけになるかもしれない。
自分の言うことを聞いてくれるのは、半人前の連中ばかりということもありえる。
ちょっと力のあるタレントや、業界人には何も言えない、ある意味なさけないプロデューサーになってしまうこともあるだろう。


プロデューサーにほしいのは、場数を踏むことである。
多くの人と交わり、多くのことを学ぶことである。
現場の人の気持ちがわかり、またそれを発注した人の気持ちをわかることである。
そして、つくりあげた作品(番組)を的確に評価できること、またその作品が次にどういうものを拡大再生産していくかが予見できることだ。
作品とは、常にネクストを予兆させるものでなければならない。
いわゆる「Think NEXT!」、次のないものに未来はないということだ。
クリエイティブな世界に住むものは、次を自分の中に常に孕んでいないければならない。
会社という枠内で、それをスポイルされてはいけないし、人事異動で、その作業を中断されるのは非合理的で望ましくはないのだ。


プロデューサーは常にプロデューサーであるべき、私は心からそう思う。
なんちゃってプロデューサーは、結局は損なのだ。
そんな存在を誰が尊敬してくれる?肝心な時に誰が無理をきいてくれる?
放送局の世界は、まさに今を語る中から未来を予兆させることが重要だ。
次を自分の中に孕まないものが未来を予兆させることができようか。


ラジオの業界、本当にまじめに自分たちの未来を考えているのだろうか。
現場を仕切れない若いプロデューサーを見るたびに、そういう絶望感がよぎるのを禁じえない昨今の私である。


プロデューサーって何?(第2回)

ある人がツイッターで、こういう問題提起をされていた。

さして経験もなく予算も持たされていない若手をいきなりプロデューサーにする風潮がある。
年寄りDを仕切るのは難儀。いわばチーママ的存在。

放送局のなんちゃってプロデューサーが若年化しているということらしい。
今の放送局(特にラジオ局)の経営陣は、プロデューサーの価値をわかっていないのだろう。
つまりは、単なる番組の管理者としてしか見ていない。
どうせ、番組の企画制作は外部の制作会社にやってもらえばいい。
社員プロデューサーはそれを管理せよということらしい。


本当にプロデューサーが、そういう存在であっていいと思っているのだろうか。
何故、面白い企画が現場から出てこないのか。
何故、これからのラジオ局の生き方に革命的なものが出てこないのか。
一言でいえば、プロデューサーにハングリーさがないからだ。
何が何でもこれがしたい、良い人材を発掘しヒットさせたい、ブームを巻き起こしたい、ああ、したくてたまらない!


そりゃ、誰だって有名になりたい、他の人より立場が上になりたいと思う。
だが、放送局の社員にとって、それは管理職への道であっても、専門職の技を磨く道ではない。
プロデューサーでがんばって、会社の中で権力の階段を昇りたいというのでは、プロデューサー的ハングリーさは生まれない。


何しろ、本当に力のある、誰でもが評価する放送局のプロデューサーは、ほとんどと言っていいほど出世しない。l
本物のプロデューサーというものは、会社の管理の枠内からはみ出すものだ。
会社の枠内で、指示を出していても、下手をすると井の中のかわず、大海を知らずになりかねない。
プロデューサーの位置は放送局の中だけではない、もっと大きなクリエイティブの世界だ。
社内で権力の道を歩めば、クリエイティブの世界は閉ざされる。
付き合う相手が単純に権力にひれふす連中ばかりになれば、そこにはお山の大将の卑小なキングダムが生まれるだけだ。
プロデューサーは王になってはならない。
意識は上にありながら、常に大衆とともに時代と寝ることが要求されている。
時代のビート、時代のバイブレーション、それらを身体に共鳴させつつ、日々進化していく、それがプロデューサーの心得でもあるのだ。


管理なんて、くそくらえ!
権力なんて、投げ捨てろ!
そんなものに、なびく愚かどもを意識の外へ葬り去れ!
プロデューサーにふさわしいもの、それは他者への愛、自分への究極的な問いかけだ。
人々の犠牲の上に、自分の成功を夢見る、なんちゃってプロデューサーなんか、地獄へ落ちろ!
と深淵にかかる綱の上の愚か者は今日もぼやいております。