カテゴリー : 2011年 9月

私はいかにしてプロデューサーになったのか(第2回)

東京支社に来て、現場の緊張感から疎外された形の私は、これから何をしようかと迷っていました。
ある時、外回りから帰ってきた電通担当のH君が、腹をユサユサさせながら私の元へやってきました。
「東芝が年末オールナイトライブを探している、何とかしてよ。」
何とかしてよっていきなり言われても、何をどうしろというのでしょう。
■東芝がオールナイトライブを探している?
東芝が探しているといっても、実態は代理店が年末のオールナイトライブをクライアントに提案したいが、大阪にもそんなライブはないの?と聞かれたということのようです。
当時(1989年)は、年末に「ロックンロール・バンドスタンド」というのが定例化され、全国で様々なアーチストが参加して盛況でした。
今でも、大晦日のオールナイトライブはカウントダウンに参加しようという若者で盛り上っていますが、「ロックンロール・バンドスタンド」はその流れを定着させる画期的なイベントだったのです。
■「ロックンロール・バンドスタンド」の情報がネットにない?
さて、その「ロックンロール・バンドスタンド」には、どんなアーチストが出ていたのでしょう。
ネットでざっと探してみたのですが、ズバリというものがありません。
いくつかのデータを拾ってみると、
THE BLUE HEARTS、ECHOES、The Street Sliders、C-C-B、SHOW-YA、ZIGGY (以上「ロックン・ロール・バンド・スタンド」~岡山)
BARBEE BOYS、泉谷しげる with LOSER、RCサクセション、UP-BEAT、JUN SKY WALKER(S)、山口富士夫&ティアドロップス、BO・GUNBOS(以上、同~名古屋)
喜納昌吉&チャンプルーズ、ザ・ワルツ、カブキロックス、ハウンド・ドッグ、ファースト・ブラッド(以上~沖縄)
その他、千葉幕張でタイマーズにレピッシュ、白井貴子、鬼頭径伍、場所はわからないが、永井真理子にトーイズ、クスクス
、筋肉少女帯、レベッカ等々、とにかく日本中の人気ライブバンドが集まり、全国各地でオールナイトライブを行っていたのです。
とはいえ、これらは断片的にあるものを私が集めてきたもの、「ロックンロール・バンドスタンド」のデータベースがネット上にほとんどないのにちょっとビックリ。
こんなことでいいのでしょうか。
■オールナイト・ライブの中継を今から考えろ、予算はあるから
「ロックンロール・バンドスタンド」の話に少しのめりこんでしまいました。
話を元に戻します。
つまり、FM大阪電通担当営業マンH君の依頼をまとめるとこういうことです。
東芝提供の大晦日オールナイト・ライブの生放送を全国の局で提供したい。
大阪地区ではまだ決まっていない。
バンドスタンドは大阪城ホールであるのだが、そちらは開局したばかりのFM802がライバルスポンサーの提供で生中継が決定している。
大阪地区としての電波予算はキープされているので、同じようなことができるなら一社提供という形で金を回せるけど、どう?
もちろん、大阪の制作連中はFM802の攻勢を指をくわえている見ているだけ、ねえ、東京の制作マンとして、何とかしてよ。
顔を赤らめ、腹をユサユサさせたH君は、ねえねえねえと何度も私に語りかけてきました。
それは私にとって悪魔の囁きであったことを今では痛感せざるをえません。
(続く)


「ロックンロール・バンドスタンド」がデータベースとしてネット上に存在しないことに、これを書いていて初めて気づいた。
当時のFM雑誌のバックナンバーを調べれば、おおよそのデータは揃うだろう。
このシリーズ書き終えたら、国会図書館に行ってこよう。

おはようございます。

朝9時に宅配便に起こされました。
いえ、隣まで来たものですからと恐縮する業者の方。
相当、眠そうにしていたみたいです。
■ラジオ部門6位
先ほどアクセスランキングを見たら、ラジオ部門6位になっていた。
駄文にゅうすの方が「脳はサボる」を紹介してくれた効果みたいです。
ありがとうございます。
半蔵門のFM局 一時期私も働いていました
これから東京半蔵門で人と会います。
何の話かは、よくわかりません。
今日もいい天気。
さあ、がんばろう。
■スタレビのサポメン CD発売
ところで、宅配便の中味は、スタレビの事務所から送られてきたCDでした。
スターダストレビューのサポートメンバーが結成したユニット「INSIDE OUT」が発売されるという。
2011.10.26発売だということで、インストアライブも決定とある。
11/8 タワーレコード渋谷店
11/10 タワーレコード新宿店
どちらも19時スタート。
さすが、スターダストレビューの事務所のブッキング能力はすごい。

私はいかにしてプロデューサーになったのか(第1回)

「フロムさんの大きなお世話~プロデューサ逍遥記」の3回目。
色んな設定に戸惑いながら、ブログを始めています。
「フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編」は今年の12月でまる8年。
このブログも、それぐらいは続けたいと思っていますが、その時まで私のポテンシャルがもつのかどうか。
自信はありませんが、とにかく一日でも長く書き続けようと思っています。


■私はいかにしてプロデューサーになったのか。
私がプロデューサー的立場になったのは、東京支社に転勤になってからです。
私は大阪のFM局に就職し、その後、編成担当、制作ディレクター、営業部外勤、そして又制作ディレクターという形で人事異動されておりました。
大体、一つの部署に3~5年だったでしょうか。
その経験の上に今の私があると言っていいでしょう。
放送局の機能というのはおおよそ身体の中に叩き込まれたのだと思います。
■ワンマン白木龍雄氏
さて、そういうわけで、大阪の制作ディレクターとしてバリバリ働いていた私に、ある日入社以来本当にお世話になった方(朝日新聞出身の当時の副社長)から直々呼ばれ、「お前、悪いけど東京行ってくれるか?」というお達しがありました。
今はお亡くなりになりましたが、白木龍雄さんと言います。
とんでもないワンマンおやじでしたが、私は別に嫌いではありませんでした。(社内では苦手な人が多かったようですが。)
大阪では、まあまあやれることはやったかなと思っていた私は、抵抗なく東京行きを承知しました。
■東京転勤は、懲役3年と変わらない
社内では、東京への転勤を喜ぶ人などほとんどいません。
大阪の人間は東京を毛嫌いする人が多く、他の人からさんざん断られたあげく私のところに話が回ってきたのかもしれません。
局内では、東京に行っても何も良いことはないというのが当時の空気でした。
大阪にいれば、今までどおりのことをしていればよい、東京に行くとすべては一から始めないといけないし、東京で頑張ったからといって、社内で別に評価されることもないというのも現実だったようです。
東京転勤は懲役3年と変わらない、とにかく3年我慢すれば、また大阪に戻らせてもらえる。
その日を首を長くして待つ、それが大阪から転勤を命ぜられた社員の大多数の思いだったのではないでしょうか。
■東京支社の日々
放送局の東京支社は、やはり本社と比べてすべてに不自由な感じがします。
事務所も狭いし、社内の設備は貧弱だし、外に出ても、知名度ははるかに劣ります。
当時の支社は、営業部、ネットワークデスク、それに私の所属する制作部がありました。
支社の仕事というのは、基本的に営業のための東京窓口ですから、どうしても社内の雰囲気が営業優先になります。
朝早くから営業会議に列席させられたり、何かの時に代わりに会合などに出席させられたり。
私の仕事は東京支社制作の番組管理という位置づけにならざるをえませんでした。
つまり、制作会社の面倒をみる差配人という感じでしょうか。
とてもプロデューサーなどというものではなかったのですが、ただ制作会社が提案してくるものを受け取ったり、管理したりしているだけでは楽しいはずもありません。
とにかく、これじゃ東京にいる意味もないなあ、大阪にいた時の方がもっと充実していたし、自分の頭の中ももっと活性化していた。
私は、このままじゃないけないなと迷いながら、最初の年を終えようとしていました。
(続く)