カテゴリー : 2011年 10月

過去のブログより~反対する人たち

過去のブログより、プロデューサー関連の話を再掲する。
ミュージカル「赤毛のアン」を企画したのは、1990年夏ごろ。
東芝提供の「大晦日オールナイトライブ」を企画し成功させた次の年である。
私が東京支社にいたのは、考えたらたったの3年。
その間、本当に多くの番組やイベントに関わった。
今後、そのあたりを少しずつ紹介するつもりだが、今回は9年前に私が書いたペンギンノートでその一端を公開する。
では、また最後に。

反対する人たち
2002-11-14 19:14
会社内で新しいことを始めようと思ったら、関係者をだますしかない。

今日、ある人とそんな話をした。

新しい事業と言うのは、そのまま話したのでは反対者が出て来て絶対に認められない。
反対者を説得することほど無駄な作業はない。
何故なら反対者の反対は、たいていの場合反対の為の反対であり、説得されるようなものではないからだ。

私も放送局時代、そんなことがよくあった。

一番印象に残っているのが、東京支社に来てプロデュースしたミュージカル製作の時である。

東京に赴任してから2年目、そろそろ億単位の仕事がしたくなった。
大阪では、できて1千万とか2千万ぐらいの仕事。
やはり、東京にいる以上、全国的な額の大きな仕事をしたいと思ったのだ。

で、その頃、ひょっとしたらブームが来るかもしれないと思った「赤毛のアン」をミュージカルにすることを思いついた。
カナダからの映画が静かなブームを起こしはじめていたからだ。

しかも、「赤毛のアン」は女の子にとっては、永遠の憧れであることは子供の頃から感じていた。

「赤毛のアン」なんて男にとっては全く興味がない話だということもよくわかっていた。
私の周りの男性は、そのタイトルは知っていても、ストーリーを知らない連中ばかりだった。

だから、社内で「赤毛のアン」をミュージカル化するなんて言っても、何を馬鹿なことを言っているんだという反応しかなかった。
そんなものに、スポンサーなんかつくものか。

おまけにその時の冠協賛スポンサード費用は2億弱、私が何を言っても社内では馬耳東風という感じだった。

ところが、そのミュージカルに某保険会社から引き合いが来た。
担当者が女性で、何となく「赤毛のアン」ブームがやってくるという予感がその人もしたそうなのだ。

2億弱の金等、安いものだったのだろう、話はとんとん拍子に進むかに見えた。

ところが、ここで起こった反対論。
それのほとんどは、社内からだったのである。

売れるわけないとたかをくくっていたのに、何と売れた。
そうなると、反対論が表面化したというわけだ。

放送局が、そんなこと(ミュージカルの製作)をしてどうするのだ、責任はすべて放送局に来るのだぞ!(そんなの当たり前だが)

失敗したらどうする?その責任は誰がとる!(失敗したら誰が責任をとるのかは、組織だったら極めて明瞭のはずだが)

年間のイベントスケジュールにそんなのは入っていない。(新規の仕事をしてはいけないのか?)

今迄つきあっていたイベント会社からクレームが来ている(何じゃそりゃ???)

思い出すだけでも、笑いそうになるような反対意見ばかりが雲霞のように押し寄せて来た。

しかし、そんな反対論がいくらあっても、もう既に売ってしまったものはしかたがない。
反対の人は、御自分でスポンサーを説得して来て下さいと言い返す私達。

そう、売ったもの勝ちなのである。

できるとか、できないとかはどうでもイイのだ。
そんなことを言っていたら、おそらく新しいことは何もできない。

新しいことをやる時に、100%の自信なんて誰も持っていない。
できるかどうかはわからない、でもやるのだ、それが仕事というものだ。

できるかどうかわからないなら、やるなというのが反対派。(たいていこういう連中が経営者側にいたりする)

ま、こういうせめぎ合いの中で、会社というのは弁証法的に発展したり衰退したりするのだろうが。

しかしまあ、この後も色々と社内の責任者にはいびられた。
そんなのその段階では出せないような資料を早急に出せなんていうし、わざと赤字になるような金の使い方をして、プロデューサー(つまり私)を困らせようとするし。

何で社内の敵と戦うのに力をそがないといけないのだ、とぼやいたものだ。(敵は外にいくらでもいるのだ!敵を間違えるな!)

ミュージカル「赤毛のアン」は本当に色々私のプロデューサー修業に役立った作品だった。
これも、詳しいことはまだ生々しいので書けないが、小説にしたら、そこそこ面白い読み物になることはうけあっていい。

思い出したのだが、その頃、よくある上司が言っていたことがある。

君たちは何をしてもかまわない。ただし、絶対利益が出ることが前提であることを忘れるな。

アホ上司の典型である。
絶対利益が出る仕事だけやってたら、仕事なんかその内なくなるわ。
新しいことが一切できなくなるということにこの上司は全く気がついていない。

新しい仕事をとって来た営業マンにこういう連中は言う。

その仕事はもちろん利益を出すんだろうな?

考えても見よう。
利益の出る仕事ばかりやっていて、利益が出る出ないの区別がつくと思うのか?
失敗するから、成功があるのである。
成功ばかりあったら、失敗が何かわからないではないか。

どんどん仕事を取ってこい、利益の出ない仕事をとってきたと思ったら、今度はその仕事で何が何でも利益を出せ、それが攻めの営業というものだ。

私ならこれぐらいのことを言うだろう。
利益の出ない仕事なんかするな!という馬鹿上司は今も一杯いる。
自分の乗っている船が沈み始めているのも知らないで。

バカは死ななきゃなおらない・・・

ただし、失敗するのがわかっているような仕事ばかりする奴もたまにいるので、一概には言えないことも多いようだが、



他人の不幸は蜜の味という。
とにかく反対するものたちは、他人の不幸を内心欲している人たちでもあるのではないかと思わないでもない。
成功するものを妬む心理というか。
多分、そういうものもどこかに勘定に入れておくのが、プロデューサー心得の一つではないだろうか。
鬱陶しい話ではあるけれども。




私はいかにしてプロデューサーになったのか(第13回ー最終回)

■オールナイト生放送始まる

さて、いよいよ生放送当日。
放送は深夜1時からだが、バイク便の第一陣が12時ごろ無事到着。
2アーチストのライブが収録されていました。
これで、とにかくオールナイトライブ生放送のカッコはつきそうだとほっと胸をなでおろしました。
もし音源が届かなくとも、2~3のアーチストがスタジオに来てくれることになっているので、雰囲気だけは作れます。
また、このアーチスト、実は大阪城ホールのバンドスタンド出演アーチスト、本当はゲスト出演というのは遠慮すべきことかもしれないけど、伊藤銀次さんのネームバリューのおかげか、何の疑問も持たずスタジオに来てくれました。
その時の出演アーチスト、どこかに資料はないかと探したのですが、結局見つからず。
FM大阪にある当時のタイムテーブルの資料でわかるかと思ったのですが、
考えたら、タイムテーブルができるのは前の月。
12月に入って決まった番組のことなど書いているはずもありませんでした。
とにかく、国会図書館でのチェックをお待ちくださいね。
(誰も待ってない?そんなこと言わずに、チャムカンマン、キダリセヨ。)

■打上げは寄せ鍋で

放送は、おかげさまで見事にフォーマット通りに進行し、朝5時で終了しました。
お疲れさまでした~!
打ち上げは、正月ということで、FM大阪内の談話室に二つの寄せ鍋を置き、とりあえずビールで乾杯。
夏木晴美さんは、こんな放送局内で寄せ鍋がぐつぐつ煮えているのを見て感激されておられました。
どういう形であれ、打上げはやっておくべきことですね、そう思いませんか?
まあ、そういうことで、東京支社のH君が電通内で得てきた「東芝が大晦日ライブを探している」という情報が、こうして一つの番組になり、無事オンエアも終わりました。
代理店から、これを作れと言われたわけではありません。
自分たちの創意工夫で何とかクライアントの要望に合致する企画を開発することができたわけです。

■何もないところから、何かを作るのがプロデューサーの力

何もないところから、何かを作るのがプロデューサーの力です。
私は、この成功例を元に、その後、多くのイベント、ミュージカル、映画を作っていくことになります。
楽ではありません、心がすり減ることもしょっちゅうですし、だまされることも何度あったかわかりません。
しかし、そういう経験の一つ一つが今の私のプロデュース能力を作ったのだというのは事実でしょう。
私は、もはや昔なら一線を退くべき年齢に達しようとしております。
かってのような何億という費用のかかるイベントをプロデュースしようとはもはや思いませんが、地域の小さなイベント、たいそうでない番組制作などは、これからも地道にやっていこうかと思っております。
ということで、シリーズ「私はいかにしてプロデューサーになったか」、このあたりでひとまず終了とさせていただきます。
ありがとうございました。


過去のブログより~人事異動(流刑地にて)

古巣の大阪のFM局から人事異動のお知らせというのが送られてきた。
新しい部ができ、それに伴う何人かの人事異動が行われるようだ。
とはいえ、私が在籍していた時は、社員は70人ぐらいいたが、今はその半分。
今や、人事異動とといっても、その選択肢は狭い。(半分は50代だし)
毎回同じ名前が出ているなあと思ったりもする。
ご本人はいつもどんな気持ちでいるのだろうか。
昇格人事もいくつかあるが、権限も増えず給与も上がらないのに、責任ばかり押し付けられるとあまり歓迎しない社員も多い。
そうだよね、20年ぐらい前は一度に5万ぐらいアップしたと記憶しているが、今では残業がない分、年収減なんて例もあるらしい、私なら拒否するかもしれないなあ。
ま、それはそれとして、新しい場所で皆さん頑張ってくだされ。


ということで、今日は過去のブログから人事異動をとりあげた「流刑地にて」を紹介する。
前に書いた、東京支社は懲役3年という話が出てくる。
では、のちほど。


流刑地にて
2001-6-12 17:34

カフカの不条理小説の一つだが、今回はそんな高尚な話ではない。
今、邱永漢さんの『騙してもまだまだ騙せる日本人』という本を読んでいる。
その中で、日本人は海外勤務をする際、行く前から帰ることを考えているというくだりがある。
「外国に住むようになっても、あといくつ寝たら・・と指おり数えて国に帰る日を楽しみにしている。日本人にとって外国に行くのは、流刑にあうようなものだ。」と続く。
これでは、その土地に骨を埋めるつもりで頑張ること等とても期待できないというのだ。

実は、この考えに似たものをFM大阪のかっての同僚たちの中に何度も見たことがある。
大阪から東京支社への人事異動はそんなに頻繁に行われることではないが、不幸にもその異動にあった社員は、だいたい東京に居ても大阪に帰ることばかり考えていたように思う。
私も大阪から東京に移動させられた一人だが、彼等の気持ちの一部は私の中にも共有されていたことは否定できない。
東京に来てから何か月かは、新橋で新幹線が通るのを見ながら、ああ、あれに乗れば大阪に戻れるんだなあ、と何度思ったかしれない。
しかし、私には東京に仕事をしに来たんだという使命感があった。その仕事のためには東京という文化に早く馴染まなければという意識が強かった。
だから、しばらくするとそういう気持ちはどんどん薄れていったと記憶する。

でもほとんどの同僚は違っていたようだ。
馴染んでしまうと帰れなくなると恐れていたとでも言うのだろうか。
先日、ある後輩から「お願いですから、東京でばりばり仕事をしているなんて本社で言わないで下さいね。」と言われたことがある。
「どうして?」と聞くと、「馴染んでいると思って本社が安心してしまい、大阪に帰らせてくれなくなります。」
そんな気持ちで毎日過ごすのは楽しいのだろうかと思ってしまう。
それほど、大阪本社の人間は東京に赴任することがイヤなようだ。
他にも社員が一杯いるのに何で私が・・・という気持ちもあるだろう。
しかも、我慢して東京に行ったとしても、それは少しも出世コースではない。(逆に見捨てられかねない。)

で、私も邱永漢さんと同じ結論になる。
東京に行くことは、流刑にあうことと同じなのだと。
懲役3年の刑と同じ、誰がそんな刑に服したいものか!なのであろう。
大阪人にとっては、海外に行くのも、東京へ行くのも、流刑地に行かされるの同じ?
そうです、これが現実なのだと断言できます。何故か?うーん、そういう気質なんでしょうねえ、日本人は。
その伝だと、私なんか流刑地暮し13年、もう牢名主の貫禄がついてしまって動けないというところか。
うー、「ショーシャンクの空に」のモーガン・フリーマンではないか、まるで。
え?動けないのなら、ジャバ・ザ・ハットだろうって?
うーん、それは東京支社の林君に言ってね。



今でも世の会社の中では、出世競争というのが根強くあるのだろうと思うが、そういうものに無縁になって20年の私には、もはや人事異動というのがピンとこない。
今の会社が演劇製作をメインにしたころ、よく社員から人事異動をするべきだ、人心を一新すべきだと提言を受けたが、こんな小さな会社でも、そんなのが必要なのかと首をかしげたものだった。
おそらく、人事異動に自分の未来をかけている人も大勢いるのだろう。
高いところから冷笑的に見るのもほどほどにしておかないといけないと最近は思うようになってはいるが。
なお、最後に出てくる名前は、プロデューサー・ストーリーに出てくる支社のH君のことです、はい。