カテゴリー : 2011年 10月26日

私はいかにしてプロデューサーになったか(第12回)

さて、私はいかにしてプロデューサーになったのかの第12回だが、そろそろ話をしめておこうと思います。
4~5回で終わるだろう、とにかく本格的なプロデュース番組といえる代表例の話をしようと思って始めたのですが、何か色々なことを思い出して、今まで続いてしまいました。

■プロデューサーの自覚

つまり、東京で注文を受け、鹿児島まで飛んでいき、東京に戻ってきて企画書提出、採用、それを受けて大阪へ行き、本社と相談し、スタッフを決める、なかなか大阪にいてはできないダイナミックな動きをしたことが、後の多くの番組をプロデュースしようというきっかけになったのは事実だったでしょう。
本当は、自分でディレクションンもやりたかったのですが、ダイナミックに動くためには、ルーチンワークは少なければ少ないほどいいのです。
情報を集めるというスタンス、いつでも提案を受け入れることができる余裕、それがプロデューサーには必要なので、自分が忙しがっていてはいけません。
頭の中が何かで一杯で、それ以外のことはできないでは、プロデューサーとして活躍することはできない、今の私はそう思っています。
ま、そういうプロデューサー論はおいおいすることにして、今回の1989オールナイトライブの話を簡単にしめておきましょう。

■スタッフの選定

中継スタッフを技術のM氏と相談して決めた後、担当ディレクターを本社制作部にお願いしました。
おまえが勝手に作ったんだから、おまえがやればいいじゃないかという冷たい視線を受けましたが、結局若手のO君がぜひ僕にやらせてくださいと珍しく志願してきたので、ずっと大阪にいるわけにもいかない私は彼に頼むことにしました。
必ずしも、信頼していたわけではないのですが、いないよりましかなと。
現場のミキサーはすでに私がフリーのM君に依頼済み、彼はしっかりしているのでディレクターはフォーマット通りに番組をすすめてくればいいだけです。構成作家もいることですし。
ま、それでも、当日の現場レポーターへの連絡が全くできていなかったので、当日裏側ではバタバタしましたが、それでも放送そのものは何とかうまく行きました。

■最大のトラブル

ここで収録現場では大きなトラブルが発生していました。
何と、このワールド記念ホールのライブをしきっていた代理店に、最初に出てきたイベントプロデューサー、ハンズのO氏が最終的な許可をとっていなかったのが判明したのです。
ライブをFMで放送することは、クライアントにも伝えていない、そんなことはやらせない、と当日セッティングしている現場に担当者が乗り込んで来られました。
中継スタッフは、茫然自失だったそうです。

■トラブルはイベントのつきもの?

どうしたらいいかと思っても、当時はまだ携帯電話がないため私にすぐ連絡できないし、すでにサンテレビの技術スタッフと、音声のミキシングはFM大阪が担当し、それをそのままTV側に流すということで段取りの相談は終わっています。
今更、音がとれないとなったら、TVにも音声が流れません。
その後、O氏がどうやって代理店の方をなだめられたのか詳しくは知りません。
トラブルが起こった後、会場に顔を出した私に、「えらいことがありましてねえ~」なんて、さびしい顔をしていたO氏の顔が忘れられません。
とにかく、イベントにトラブルはつきもの。
そんなこと一々気にしていたらプロデュースなんかできませんわね。

■そして番組は始まった

そういうことで、何とか現場はおさまり、私も神戸ワールド記念ホールで始まったリハーサルをチェックした後、現場の方によろしくお願いしますと挨拶をして、大阪中之島の本社スタジオに戻りました。
6時過ぎ、伊藤銀次さん、夏木晴美さん、アニマルハウスの大塩さん到着。
いよいよ、番組の最終打合せが始まりました。
ま、その前にめしでも食いますか~。
気楽なディレクター、O君が少し緊張するスタッフを和やかにしようと思ったのか、場違いな発言をします。
そんなの打合せが終わってからだろう、みんなが何とか落ち着いてからでないと、飯なんかくえるわけないだろが!
私は、ワールド記念ホールでのトラブルが本当におさまったのかが気になっていて、それからバイク便でテープが届くまで心配でなりませんでした。
何しろ、そのテープが届かなければ、東芝提供オールナイトライブ生放送は成立しなかったわけですから。
時間は刻々と過ぎて行きました。

(続く 次回が最終回)