カテゴリー : 2012年 1月22日

FM局盛衰記・2

しばらくは具体的な話を書く予定だ。
思い違い、また誤解を与えるような表現があれば、その都度ご指摘いただければ幸いだ。
とにかく、少し感情が交じるかもしれないが、ご容赦ねがいたい。


前回バブルがはじけたと書いたが、ラジオ業界にそれが津波のように押し寄せたわけではない。
土地価格がドーンと下がったといっても、ほとんどのFM局はそういう余分な投資はしていない(ゴルフ場の会員券はスポンサーのからみでだいぶ買わされたりしたが)ので、いきなり売上大幅減にはならず、じわじわ、じわじわ影響が出ていったというのが実情ではないか。
レコード業界では、わが世の春だったファンハウスやフォーライフ等が失速、いずれも自社ビルを建てたばかりにバブルを影響を受けた形になったようだ。
その後は、レコード会社が外資系に買収されたり、音楽事務所が力をつけて原盤権や音楽出版権などおいしいところをレコード会社に渡さず、宣伝費だけレコード会社に負担させるという形になり、ますますレコード会社が苦しくなっていくのである。
赤坂のコロンビア通りにあったコロンビアのスタジオ(美空ひばりがレコーディングしたという由緒正しい場所)まで、外資の経営者によって売却されたり、その影響は日本のレコード会社の伝統を次々に破壊していったように思われた。


外資系は選択と集中を徹底し、それがミリオンセラーのCD続出という結果を一時的に生み出したが、その裾野はますます狭くなり、パソコンやネットの普及でその選択と集中も不可能になっていくのだった。
その反動で、まだ過去の伝統を継承できたレコード会社、例えば新興で株式上場緩和の恩恵を受けられたAVEXなどが、多くのアーチストを抱え、一人勝ちの状況になったことは押さえておいていいかもしれない。


ま、レコード会社のことは又別のところで語ることにして、ラジオ業界である。
既に古巣のFM局を退職していた私は、自分が企画立案しその後も続いたミュージカル上演の会社に転職。
バブル崩壊に見舞われながら、しばらくは演劇制作業務を維持。
当時の、産経新聞経済部出身だったFM局社長の「バブルは一時のことだ。後5年もすればまた景気は戻ってくる。その時は一緒に頑張ろう」などという言葉を信じ、無理をして事業を継続していたというのが実際のところだった。
しかし、この社長の言うことは、ことごとく外れた。
景気はどん底のまま、FM局の売上も落ちる一方、しかもライバル局がレコード業界との関係を強める中、完全においてけぼりになりはじめる。
もはや、FM局の業績が上向くことはなかった。


社員の数も70人余りだったのが、今や一時期の1/2である。
制作現場の社員、多い時は20人ぐらいいたが、現在は当時の1/4。
レコード室担当も最低でも2人いたのに、今やそんな室そのものがなくなってしまった。
技術部となると、多い時に10人いたのに、今では3人しかいない。
つまり、生産現場を外注し、営業部や総務部だけは必要人数は残すという考え方に変わったのだ。
これを、しなければいけない正しい合理化だと、当時の人事担当役員は言っていた。
多分、その任を解かれた今も、その人の意見は変わっていまい。
前のような体制を維持することは、売上減の前には全く不可能だったのだろう。


半分の社員の人数が生み出しのは何か、それは売上の半減だった。
いや、その逆かもしれないが。
半分の売上で養えるのは、半分の社員でしかないのだ。
いわゆる下方スパイラル、何か、戦国時代の衰退する大名のようなものだ。
城を守るものが毎日減っていく中で、外へ打って出る力もなくなっていったのだろう。
そして、今は。
その話は、ゆっくり考えながら次回に書いてみたい。




FM局盛衰記

さて、少し具体的な例を出しながら、今後の放送業界、ラジオ業界について考えを述べて行きたい。
そうなると、まず私が在籍していた古巣のFM局のことに触れないわけにはいかない。
今、私の目の前には、その局の最新タイムテーブルがある。
私が居た時のそれと比べて一番顕著なことは、スポンサーの表記が圧倒的に少ないことである。
キラ星のように、有名クライアントが並んでいた時代、その時はFM放送は時代の寵児であったなあと思う。
今は、ただのラジオの一つ。
かつてFM東京さんが、「FMをラジオと呼ぶな」と主張されていたことを思い出す。
ラジオという言葉はAMを指すものだ、我々はFM、新しいメディアである。
差別化するために、ラジオとは呼ばせない、ローカル局もそのつもりで、というニュアンスだった。


FM大阪発のネット番組に「れでぃお・アンルイス」(シャープ提供)というのがあった。
東京さんは、このタイトルにクレームを入れてこられた。
ラジオという表記はやめてくれ。
それに対してのFM大阪の返事は、「ラジオじゃない、れでぃおです。」だったとか。
本当かどうか、今となってはわからないが、色々ごたごたしていたと聞く。
ちなみに、私はこの番組の三代目ディレクターだったが、代わってから1年ほどで終了してしまった。
で、その後番組が前にお話した「山本コータローのアイドルランド」。
アイドルという言葉にも、FM東京は拒否反応を見せたらしいが、真偽のほどは不明ということにしておこう。


FM局、これも前にFM雑誌のところで書いたことだが、最初はオーディオ関係のスポンサーがメイン。
トリオだのアカイだのサンスイだのデンオンだのアイワだのオンキョーだの。
それに家電メーカーがわざわざオーディオだけのブランドを作り、松下はテクニクス、東芝はオーレックス、三菱はダイアトーン、三洋はオットー、シャープはオプトニカ、日立はローディ、ソニーは・・・やっぱりソニーだったかな。(日本ビクターはどうだったっけ。)
これらが番組持ったり、全時報のスポットを提供したり、1日ニュースを提供したりしていた。
これに大阪だと日本橋の電器店がスポットの提供に加わる。
今でも残っている上新電機のほか、ニノミヤムセン、中川ムセン、喜多商店、昭和ケース音響、岡本無線、共電社、シマ無線なども提供いただいていたと記憶する。(記憶もれがあればご容赦ください。)


基本的に、番組はエアチェック優先のフォーマット。
本当に若い層、それもお小遣いを持っているヤング、ヤングアダルト層ねらいのクライアントが多かった。
もう、そういうイメージというか、若者ブランドとして確立していたのがFM放送という感じだった。
ところが、10年も経つと、オーディオ中心では売上が伸びない、もっと女性の層を取り込まないと今年度の予算は達成しないという話になり、少しファッショントークみたいなものが増え始める。
ワイド番組を切り刻み、ファッション中心のベルト番組、デザイナーのトーク番組などが始まる。
コーセー化粧品、資生堂、カネボウ。
外資系のクリニークがFM中心に長秒スポットを打ち出したのもこの頃。
大阪だけでも、年間2千万程度のスポットを流したのではなかったか。
その頃からファッション系のクライアントも増え、大阪ではスリーエム、コバック、東京スタイル、イトキン、ミカレディ等々がクライアントに名乗りを上げ始めた。


10年目以後に打ち出したキーワードが「ニューファミリー」。
つまり、学生だったオーディオファンの若者が、結婚し、子供が産まれ、ファミリーを形成。
それも今までと違って、核家族的に独立したファミリー。
そのニーズに合わせた商品が生まれ、そのPRにFMメディアが選ばれたのだろう。
80年ぐらいから加速度的に増えていったのは、SC(ショッピングセンター)。
百貨店やスーパーの時代から、おしゃれなSCの時代へと変わって行った。
その時にもFM放送は、SC展開の核にいた。
ほぼ私の営業時代で、私が担当したクライアントだけでもエスト一番街、心斎橋パルコ、泉北パンジョ、心斎橋ホワイトアベニュー、京都駅ポルタなどがあった。
バーゲン時には、スポット枠はSC物件で一杯になった。
今では、全く考えられないことだ。


降る雪や 昭和は 遠くなりにけり


さて、昔話ばかり書いてしまって、そろそろ皆さん退屈されはじめたかな、もう少し辛抱してくだされ。
などとワアワアやっているうちに、バブル到来。
FM局も次々に生まれるし、90年代までは話題が一杯だった。
ただ、この頃になると、もはやニューファミリーという言葉も失速し、オーディオ関係の出稿は激減、また女性層は専らテレビや雑誌への出稿で事足りるようになった。
ラジオは家で聴くよりも車で聴くようになり、自家用車、ガソリン、損害保険など、カー関連のクライアントが伸びてくる。
バブルだから、高い車が面白いように売れたし、外車のディーラーからの出稿も目立った。
そしてCDのミリオンセラーが松任谷由実という歌姫を得ることによって、常態化しはじめ、音楽系の出稿もFMにどんどん向かい始める。
J-WAVEの開局、FM802の開局、802はヘビーローテーションを武器に、新しいアーチストをレコード会社と組んで次々にスター化させていった。
あげくは、ヘビーローテーションまで売りに出すFM局が現れ、50万、100万という金が各ローカル局にまでばら撒かれるようになる。
そして、バブルがはじける・・・。
FM局は、一瞬沈黙し、そして長期低落の時代が始まることになるのだ。
(続く)