カテゴリー : 2012年 2月

シリーズ 広告代理店・10

お世話になった代理店、他にもたくさんありましたが、後2つだけ上げさせていただきます。。
一つは第一企画さん(現アサツー ディ・ケイ 旭通信社と合併)。
媒体担当の方が、高校の同級生のお兄さんでした。
何かといえば高校の話を持ち出されるので、正直閉口。
「日本経済新聞を読んでるか?読まないと営業できんぞ。話題に遅れるし、問題意識も生まれない。とにかく読め。」と会うたびに説教も。
それから、日本経済新聞も読むようになりました。(それまでは、自分と関係ない記事ばかりあるなと思い、見向きもしませんでした。)


ここで印象的だったクライアントは、やはり心斎橋パルコさんですね。
宣伝担当の方がジェットストリームのファンで、私がジェットの後のステブレをスポット案に組み込むようになってから、ほぼ毎回出稿してくださるようになりました。
といっても、ジェットストリームは人気番組で後枠のステブレは大人気。
そろそろパルコのバーゲンがありそうだと察知したら、発注がなくても週に3本程度あらかじめ押さえました。(それ以上はスポットデスクが枠出ししてくれませんでしたから。)
いつも、ABC,MBS,FMOの3社競合という形でしたので、もし、ジェットのケツ(実際はこういう言い方をしました)をスポット案に含めなかったら、多分採用はされなかったでしょう。
何となく、宣伝担当の方の気持ち、わかるんです。
寝る前に、自分の好きな番組を聞き、最後に自分の関わったCMを聴く。
何か、気持ちよく眠れそうな感じがしませんか。
ま、私も同じように、自分の販売したスポットを聞きながら眠っていたので共感できるんですよね。l


私の愛した代理店、最後に、協同宣伝さんを上げておきます。
JA(早い話、農協)系の「家の光」を母体にした広告代理店です。
「家の光」というのは、農家ならどの家にも一冊あるという月刊誌。
私の奈良の親戚の家で子供の頃見た記憶があるのですが、最近は私も全く見たことはありません。
多分、これをお読みの方のほとんどはご存じないかもしれませんね。
自社の紹介文に「『家の光』は、“協同のこころ”を家庭ではぐくむ雑誌として、大正14年に創刊され、平成22年5月号で創刊85周年を迎えました。農家の主婦層を中心として、子どもからお年寄りまで、みんなで楽しく読める総合家庭雑誌です」とあります。
農家をターゲットにするクライアントの方なら、知らない人はおられないと思いますが。


ということで、私が担当になった時は、FM局の需要などほとんどありませんでした。
でも、現場の若い方と何じゃかんじゃ音楽の話を中心にしたクリエイティブな話をしていると、こんなことできる?あんなことできる?と問いかけが増えてきました。
で、それを何とかできる形にアレンジしている中で、何と大阪城野外音楽堂のイベントの実施にまで話が進んでいきました。
クライアントは、心斎橋の三木楽器さん。
アマチュアバンドの方、そしてプロのアーチストが集う一大お祭イベント「大阪城・緑の森音楽祭」が生まれたわけです。
そして、このイベントが大成功するとともに、一人のアーチストが脚光を浴びることになりました。
上田正樹さん、そしてリリースしたばかりの「悲しい色やね~大阪ベイブルース」です。
私は、この曲をイベント(5/5実施)の始まる1ヶ月前から、イベント告知スポットのBGに使い、毎日30本程度流しました。
「ホールドミータイ、大阪ベイブルース♪」、この部分は常にアップして繰り返すのです。
当日、会場に来た人は皆この曲を知っていて、キー坊は、思いがけない大阪の観衆の歓待を受け、舞い上がっていました。
それを当時のソニーの宣伝が東京から大挙記者を呼んでいましたから、その噂はまたたくまに全国へ。
「悲しい色やね」、空前の大ヒットへとチャートを駆け上がっていったのです。


ま、あくまで私から見た風景ですけどね。
その当時の状況をいちいちここに書きませんが、キー坊が何故にイベントに出ることになったのか、しかも他にもビッグなアーチストがゲストとして出ていたのに、何故に大トリを彼に任せたのか、それなりの思惑が私たちにあったことだけでもお分かりいただければと思います。(何しろ、飛び込みで笑福亭鶴瓶師匠まで舞台に登場されましたから)
書く機会がもしあるようでしたら、またゆっくりそのあたり説明させていただきます。


で、この第1回緑の森音楽祭、その後どうなったかは、次の年に制作現場に人事異動になった私は詳しく知りません。
ま、私がいなくなれば継続することは難しかったでしょうね。
イベントのエッセンスまで後任に引き継ぐことはできませんし、広告代理店側にも私が関与しないイベントはリスキーだと思われたようです。
しかし、このイベントの成功は、私に新しい選択を10年後に迫ることになるのです。
この時の協同宣伝の担当者が立ち上げた会社への転籍なのですが、長くなるのでその話は又の機会に。
人生、本当に色んなことが起こるものだと、今更ながら思いますね、私は。



シリーズ 広告代理店・9 私の愛した代理店

電通さんの2011年「日本の広告費」が発表されました。
それによりますと、広告費の全体は5兆7096億円、前年比97.7だそうです。
震災の影響で数字は減少していますが、全体としては現状維持という結果ではなかったでしょうか。
そんなに悲観的になる必要はない、広告関係者の皆さんにはそう私の意見をお伝えしておきます。


ただ、ラジオ関係者にはちょっと辛いお知らせを。
2008年には、ラジオ広告費は1550億円、その後2009年、1370億円、2010年、1299億円、2011年、1247億円となると、これどうよ、という気になりますね。
どう見ても、ラジオの現状は時代から少しずつ取り残され始めているという印象しか見えませんね。
大丈夫だ、ラジオはまだまだポテンシャルがある、なんて私の古巣の方も宣言されているようですが、大丈夫ですか、これ?
何か、禿げ始めたオジサンが虚勢をはっている姿に似ているなんて書くと、失礼ですかね。
リアップとかスカルプとか、大丈夫じゃないわよなどというカツラ関係のCMがありますが、どれも決め手なし。
禿につける薬がないように、ラジオにも・・・、ま、杞憂でなければいいのですが。


さて、気分をガラッと変えて、私の愛した広告代理店の2回目。(え?そんなタイトルだった?)
交通事業者と大毎広告の方の話をしましたが、毎日新聞系といえば、毎日広告社の方にもお世話になりました。
といっても、この毎日広告社、名前を毎日新聞からお借りしているだけで関係はないということでした。
東京にある毎日広告社とも何の関係もありません。
私が担当した時は、全く扱いはありませんでしたが、ある開発関係のグループ企業をクライアントとしてお持ちだったため、大阪デザイナー学院とか東条湖ランドなどの単発スポットをいただくようになりました。
そのお返しといっては何なのですが、たまたま私の高校時代の同級生が入社したこともあり、私が開拓したクライアントの扱いをお願いしたりしました。
ただ、経営者の方が、出入業者との関係に厳しく、私的なつきあいを仕事上禁じておられたので、基本的にビジネスライクにしか付き合えませんでしたが。(一緒に酒を飲むなど、ご法度でした。今もそうなのでしょうかね。)


それからビッグショット(現クオラス)も思い出深い代理店です。
ビッグショット、フジサンケイグループの代理店で、音楽業界に強かったですね。
大阪事務所には少し年配の方がひとりおられたのですが、何となく面白い人で時間があればよく遊びに行きました。(事務所は阿波座にありました。隣にはポニーキャニオン、フォーライフの事務所もあり、時間つぶしには事欠きません。)
ゴルフの好きな人で、何度かご一緒したことも。
アメリカに行き、ホールドアップにあって、所持金みんな持っていかれたとか、色んな武勇伝のある人でしたね。
こちらも担当した時は、全く扱いはありませんでしたが、何だかんだとやっているうちにスポットの発注がちょこちょこ出てくるようになりました。
最終的には1度に200万のスポット発注が。
この話、色々教訓になるところもあるので、また別の項で話したいと思います。


そして、大栄広告社さんの方の話も忘れることはできません。
10人規模の小さな代理店でしたが、ネットで調べても今は出てきません。(東京の別会社はあるのですが。)
当時の常務さんがなかなかの趣味人で、何故か私をかわいがってくれました。
多分、常務さんの趣味と私の趣味にクロスするところがあったのでしょう。
ある時、昼ごはん一緒に食べよう、梅田の地下街においでと誘われました。
何かすごいところでご馳走してもらえるのかなと思って、ルンルン気分で行ったところ、地下街のトイレのそばにある狭いカレー屋さんに連れて行かれました。
その店の名は「ピッコロ」。
今でこそ、ピッコロは有名で、店も色んなところにありますが、その時は多分そこだけ。
常務曰く、ここのカレーはうまいよ、これからきっと流行るはずだ。
確かに、その後話題にどんどんなって行きました。
でも、味的には私はピンと来ませんでしたね。
私、あんまりカレーが好きじゃなかったからなんでしょうが。


ま、そういう趣味人の常務さんにはクライアントさんも色々ご紹介いただきました。
商売になったのは、心斎橋筋の一本裏にあった「毛皮のリンクス」さんでしょうか。
毛皮のエンバとかが安売りを始めて、女性の間にちょっとしたブームになっていました。
で、毛皮のリンクスさんの大将が、加山雄三のファンとかで、サンケイホールでのコンサートのポスターにはいつも協賛されておられました。(常務さんが提案されたそうです。それなりの信用も獲得されていたようです。)
で、加山雄三さん情報などを適当にふくらましながら、私がFM大阪のスポットを大将と奥様に提案させていただきました。
ま、それぐらいやったらええでしょ、うちは100万とか200万の毛皮を売っているんやから、かまへんよと嬉しいお返事。
夜の11時台の20秒スポット、週3本で月35万円、冬の3ヶ月間という条件だったと思います。
あの毛皮のお店、まだあるのでしょうか。


などと書いていると、当時書いた営業日誌が出てきて、しばらく読んでおりました。
ああ、ラジオ局の営業マンとして苦労していたんだなと、しばし実感。
というわけで、今回で思い出話はやめようと思っていましたが、後1回続けることにします。
まるで私の備忘録みたいなブログになってしまいましたね、お許しあれ。




シリーズ 広告代理店・8

私が営業部に異動させられた時、いわゆる外勤担当(セールスマン)は私も含めて5人いました。
それぞれに広告代理店担当を割り振ります。
大きな代理店、大阪では電通、博報堂、大広、今はなき万年社ということになります。
私は制作から異動してきたほやほやの営業マンですから、これらの担当は私以外の4人。
大広担当の方は、家が京都ということで、京都の代理店も担当しています。(京都電通、京都博報堂なども担当)
また万年社担当は、家が阪神地区だったので、神戸の代理店も担当。(神戸電通、神戸博報堂・・・)
博報堂担当の方は、阪急グループを一手に扱われていた大阪読売広告社の担当でもあり、これら4人の方は代理店に行くだけで、そこそこの仕事話はありました。
私には、そういうことで大きな代理店担当はなし。
最初から負担にならないようにというか、変なことをしないようにという会社の配慮だったと思いますが、それゆえすぐに仕事などほとんどありません。
そりゃ、どこかの大きな代理店を担当していたほうが楽に決まっています。
毎日顔を出していれば、そのうち仕事が回ってくるといいますか。
楽といえば楽だったんじゃないでしょうか、ま、横から見ていてですが。


そういうことで、私は中堅から小規模の代理店専門という感じでした。
早い話、ほとんど扱いのない、代理店ばかり。
とはいえ、営業に配属された頃はそんな事情はわからないというか、私にとってはどうでもよいことで、言われた担当の代理店をひたすら回ったものです。
何しろ直ぐに売上を上げろとは言われていません。
ので、勉強がてら、あちらこちらと顔を出していたわけです。
正直、良い人たちにめぐり会ったなという感じでしょうか。
何の扱いもないFM局の営業さんが何しに来たの?というところから始まり、何だかんだと話しているとおぼろげながら広告の世界が見えてきたというか。
日々会う方から新しいことが学べるという感覚で、意外と営業も面白いなと思うようになっていったのです。


私の担当は、大阪の代理店ばかりでしたが、参考のためその後扱いが増えた代理店を幾つか列挙したいと思います。
一つは、日本交通事業社(現JIC)、JTBのハウスエージェンシーで、主にJTBの新聞広告やパンフレット制作がメイン、他にJRとの結びつきも強く、京都駅の地下商店街ポルタ、大阪駅のエスト一番街などを担当。
私が担当になった時は、扱いはゼロでしたが、後にJTBの提供番組もスタートさせましたし、エスト一番街は1983年のオープンの時から代理店の方と二人三脚で媒体計画などをプランニングさせてもらいました。
その結果、FM大阪に年間で1000万近い売上をいただき、本当にお世話になったものです。
JR傘下の開発会社の社長さん、常務さん、営業部長さん、課長さんにも、すごく可愛がっていただいたのもいい思い出です。
1年ほどで、私は営業から又制作に人事異動したため、エストとは少し疎遠になってしまいましたが、今でも代理店の方(今は別会社の社長さん)とは仲間みたいにつきあわせてもらっています。


他に、大阪毎日新聞系の代理店、大毎広告さんにもお世話になりました。
私が担当になった時は、心斎橋にあったビフテキの花ふささんの週3の扱いがありましたが、私が通うになってから、何と週5になり、20秒スポットが30秒スポットに。
また、松山に支店を出すということになり、FM愛媛さんのベルト番組(交通情報)も担当させてもらいました。
その後、いただいた単発スポットは数知れず、当時の媒体部長さんが名古屋に出張する時に、岐阜のスキー場の広告計画を決めに行くんだけど、あんたとこも欲しいかと言われ、「ほしい、ほしい、ぜひちょうだい」とおねだりしたら、何と200万もスポットを取って来て頂きました。
大日岳スキー場というのですが、全く関西人には知られていなかったスキー場。
一度お礼にすべりに行かなくちゃと思っていたのですが、これも営業を外れて制作現場で大忙しになり、その後どうなったのか全く知りませんでした。


さて、この調子で思い出話を書いていると、あと倍の量になりそうです。
後半はまた次回ということにします。
お世話になった代理店の第二部、ぜひまた読みに来てください。