カテゴリー : 2012年 3月29日

シリーズ ラジオの生きる道(11)~サブカルとラジオ・2

ラジオとサブカル論を考えていると、色々な事象が頭の中をかけめぐります。
多分、私が大阪のFM局に在籍していた時、ラジオとはサブカルチャーの表現の場だと信じていたゆえかと思われます。
元々、FM局というものが、サブカル的位置づけだったのではないでしょうか。
ポップスのアルバムを全曲かける、なんてこと普通のラジオではしなかったでしょう。
そのアーチストに興味がなければ、アルバム全部を我慢して聞く人などいるわけがありません。
でも、私のいた局が毎日夕方に流していた「ビート・オン・プラザ」はその典型。(深夜に再放送)
しかも、そのアルバムはすべて最新というか、新曲ばかり。
これが毎日手を変え品を変え流れるのです。
どう考えてもサブカルチャーです。
今、これと同じ番組をやれば、多分聴取率はほとんど取れないと思われます。
聞く側のテンションがある程度上がっていないと、とても最後まで聞くパトスが生まれないでしょう。


つまり、当時ポップスとは若者のサブカルチャーの重要な部分を占めていたのだと思うのです。
FMがそのサブカルをカルチャー領域まで上げるきっかけを与えた、これこそラジオに若者が求めていたものだったのでしょう。
ラジオを若者が聞かなくなったには様々理由があるでしょう。
家にラジオがない、ラジオというものに新しいものを感じない、オジンオバンのメディアには興味ない、他にも接するメディアはいくらでもあり、そんなものに向ける時間がない。
早い話、ラジオには若者へのメッセージがないということでしょう。
机の上にトランジスタラジオが置かれていた時、ラジオは常にメッセージを放っていたのです、スイッチを入れなくても。
それは魔法の箱、そこからはサブカル、つまり俺たちの知りたいこと、俺たちの仲間の声が溢れていたのです。


今、そんなラジオ、どこにあります。
radikoは魔法のアプリですか、掌の中のラジオからそんなメッセージが伝わりますか。
思うんですよ、今皆さんが聞いているラジオって、どんな形をしています?
そのラジオはコンポですか?
それともラジカセですか?
PC?スマートフォン?
そうです、イメージがはっきりしませんね、ラジオという形が人々に見えないのです。
テレビは誰が見てもテレビです、大きさの違いはあったとしても。
ラジオ、どうしてこうバラバラなイメージのままで放置するのでしょう。
いや、放送局の現場の方に聞きます。
貴方の放送を聞いているリスナーは、何を使ってあなたの作っている番組を聞いていると思っていますか。
ラジオの形がわからなければ、それを聞くリスナーの状況もまるでわからないのと違いますか?


私が番組を作るなら、もうリスナーのイメージはある程度固定します。
例えば、カーステレオで聞いているとか、古い家にあったラジカセで聞いている、とか。
リスニングルームでFMを聞いている人が今やいるかどうか知りません、でも、リスナーはリスニングルームにいると考えれば、自ずと作る番組は限定されますね。
何が悲しくってラジオショッピングなんか流します?
くだらない喋り、おそまつな音楽、どうでもいいゲストの声なんか誰が流してほしいと思うでしょう。


ラジオショッピングなんて流すのは、家に昔からあるラジカセで聞いているリスナーというイメージしか思っていないからじゃないですか。
そりゃ、いくらアーチストのライブ告知スポットを流しても、反応はないはずです、そんな音楽的にアクティブな層はラジカセなんかで音楽聞きませんからね、今や。
とにかく、古いイメージでいまだに音楽リスナーをとらえている、今の音楽分野のイノベーターは何で音楽を聞くか、ちょっと考えればわかりそうな話です。
そういう音楽ファンにリーチしたければ、サブカルな臭いのするやや濃いめの音楽プログラムを持ったラジオでなければ無理です。
横で、ラジオショッピング流しているんですよ、レスポンス広告流しているんですよ、そんなものサノバビッチじゃないですか。


ラジオはとんがっていないといけない、私はいつもそう思っています。
そのトンガリの演出は、時として局の上司とぶつかります。
しかし、それを忌避していては、とんがったリスナー、イノベーター層との接点は生まれません。
最近は、残念なことに制作現場のほとんどが下請けの制作会社。
局の上司とぶつかるなんてこと、するはずがありません。
文句は一杯あっても、長いものにはまかれろで旧態依然たる番組を流しています。
それで聴取率を上げろ、何とかしろと言われているわけです。
何か本質的な部分忘れていますよね、今のラジオの現場は。


ラジオの現状に対して言いたいこと、ほんと一杯あります。
これから、このブログでどこまで言えるか、皆さんのコメントなど聞かせてもらえるとうれしいです。
よろしくお願いします。



シリーズ ラジオの生きる道(10)~サブカルとラジオ

サブカル、サブカルチャーのことです。
サブは副の意味よりも、下位という意味の方が近いですね、つまり下位文化と訳されます。
文化の下位にあって、一部の人たちによって形成されている思考形態・行動形態とでもいいますか。
でも、その一部の人たちが次第に多くの人に支持され、権威を持つようになると文化、カルチャーになる、ま、それぐらいの意味で私は使っています。


ラジオはサブカルチャーと親和性が強い、と私は思っています。
深夜放送というのも、元々はきわめてパーソナルな、本来学生や生徒の教育面においてはカウンターカルチャー的なサブカルだったといえましょう。
勉強しているのかと思ったらラジオを聞いている、しかも夜遅くまで。
おかげで次の朝はなかなか起きてこない、お母さんは怒って「早く起きなさい!」と大声を上げる。
深夜放送なんて、親や学校からすれば好ましからざるものです、教育的に言って。
それでも、深夜放送というサブカルチャーは多くの文化を産みました。
ビートルズといえば不良そのものだったのが、しばらくすれば芸術として認められ、それが50年たった今も多くの富を産みつづけているのは、誰も否定できないことです。
サブカルチャーからカルチャーへ。
その過程に大きな影響力を持つのがラジオというわけです。
テレビは結果を伝え、ラジオは過程を伝えるメディアだと私は繰り返し述べてきました。
テレビはカルチャーを伝え、ラジオはサブカルチャーを伝えるメディアと言い換えることもできそうです。
これからの話もそういった私の意見を前提に聞いてみてください。


さて、サブカルのイノベーター、すなわち下位文化を担っている人々からの視点でラジオを考えてみようと思います。
これらの人たちは、自分たちの表現の場を、今日も求めています。
場としてのプライオリティを考えると、一番はやはり雑誌などの活字媒体、サブカルを体現するような雑誌の誌面に原稿を書いたりすることでしょう。
その次は、新聞、それも一流紙、そしてラジオの出演というのが考えられます。
本当はテレビの出演というのが、精神的な部分では一番なのですが、サブカルはテレビには耐えられないのが感覚的にわかっておられるのではないでしょうか。
テレビでは、本質をねじ曲げられる、とがった部分は丸くされる、あげくに何だかわからないままに、単純化され、はっと気づいたら終わっている。
自分も場に慣れないので、出たという結果しか残らず、表現的には不満だったりするのではないかと思います。
サブカルにはテレビは似合わない、私はそう思うのですがいかがですか?
とりあえず今回はラジオの事がメインなので、テレビのことはこれぐらいで。


サブカル関係者、ラジオは意外と自分たちに合うなと思っているはずです。
ラジオに出るということも一つのステータスですし、また自分のためにそこそこの時間をとってくれます。
番組の趣旨とうまくはまれば、まさかと思うほどの反応も返ってきます。
永六輔さんの番組を聞いていると、例えば恒例の「まむちゃん寄席」(毒蝮三太夫さん主催の番組とタイアップした寄席)の告知がなされます。
多分、まむちゃん寄席なんて言われても、何それ?という人がほとんどでしょう。
ところが、番組内でチケット売り出しの話をすると、番組の途中でほとんどと言っていいほどソールドアウトします。
そういう人たちが、永さんのラジオを一杯聞いているのです。
チケットの数なんか、たかが知れています。
でも、じゃあ新聞に広告を打てば売れるのか、テレビでCMを打てばソールドアウトするのか。
多分そうじゃない、これはサブカルの分野、永さんの番組で取り上げるから売れるんだということが、放送関係者として場数を踏めば納得されるようになるはずです。


映画なんかもそうです。
多くのスクリーンで上映されるような映画は、テレビでの主演者のPR出演は重要でしょうが、単館系の映画ははるかにラジオの方が訴求したりします。
今は存在するのかどうか知りませんが、NHKラジオ深夜便で映画紹介のコーナーがあり、私は夜、車を走らせながらよく聞きました。
NHKですから、これは映画のパブリシティでもなんでもありません。
コメンテーターの人が、本当にいいと思った映画を紹介してくれます。
しかも、本当にいいと思っているから、その気持ちが言葉に見事に乗っているのです。
ああ、そうか、そこまで言うなら一度見てみようか、と聞いている方も心から思うようになるのです。
おかげで、ちょっと気になった映画は、映画館まで見に行きましたし、見そびれた映画はビデオになった時に借りに行きました。
そりゃ、テレビのようにいきなり大当たりなんかしません、ラジオは。
しかし、「あるある大事典」のような、仕組まれた流行みたいな話とはラジオは無縁であることは確かです。
一体どちらが本当に消費者、ユーザーに向いているでしょう。
ユーザーに真摯に向き合っているメディア、ラジオの生きる道はまさにそれだと思うのです。


だから、私は繰り返し言うのです。
ラジオショッピングやレスポンス広告、それが本当にラジオの生きる道ですか、ユーザー(リスナー)の気持ちに配慮がなされていますか?と。


とにかくサブカルを担う人々はラジオにその場を求めているのは事実です。
それにラジオの現場がどれだけ対応できているか、ただで出させてやるんだ、ありがたく思え、なんて上から目線でないことを祈ります。
サブカルチャ―のイノベーター層と、どれだけラジオ局側がWIN-WINの関係を保てるか。
ラジオ局の皆さん、原点にもどって一度じっくり考えてみてはいかがでしょうか。