カテゴリー : 2012年 5月

シリーズ ラジオ制作者の心得(4)~一次情報に徹する・3

放送マンは、一次情報に可能な限りアプローチすることが重要だと私は書いてきた。
最近、それを証明する典型例が出てきた。
今話題になっている生活保護問題で、その先頭に立って発言している政治家のことだ。
主張されていることをどうこう言うつもりはない。
問題は、その発言の根拠になる情報についてである。


別にそれが週刊誌やネットの情報から発していてもかまわない。
その後一次情報に根拠を求め、事実が確認されてから発言されるなら私がここで批判することは何もない。
不正受給を追及するのは立派な政治家の使命だと私は思う。
問題は、その政治家が日曜日のテレビで発言された内容だ。
私は関西のテレビで脅された、怖かったみたいな論調で語られたこと、あれはどう見ても誤りである。
そんな脅すようなセリフは何もない。
誰かが、それを曲解してその政治家に伝えたのかもしれないが、それは一次情報ではないだろう。
何故確認しない、政治家なんだから放送局に問い合わせればいいだろう。
何故、うのみにするのだ、例えそれを補強する言葉がネットに流れていたとしても。


ジャーナリストなら謹慎モノである。
私の部下がこんな失態をすれば、こんこんと説き聞かせるだろう。
そんなミスをしたら、今まで言ってきたことも全て嘘になりかねない、と。
それでなくても、正論を語るジャーナリストには、それを快く思わない勢力(既得権に守られた勢力)が一杯いる。
真実を訴える、問題を暴く、そのためにはプロセスに瑕疵があってはならない。
一度のミスを挽回しようと思えば、100回真実を積み重ねないといけないと心得るべきだ。
ああ、あの人は嘘をいう人だから、と思われたら、その後どれだけ真実を語っても容易に信じてもらえない。
敵の思う壺である。
そういう緊張感、政治家なら尚更持たないといけない。


こう言い換えることができる、二次情報に振り回されるな、と。
相手がその道のプロなら、人の心を惑わせるのは容易である。
オレオレ詐欺なんかも、二次情報に振り回された結果である。
一次の情報はどこにあるのか、それを追求すれば詐欺などには本来かからない。
しかし、人は本来そういう風にはできていない。
テレビでキャスターが言っていたことを簡単に信じてしまう。
NHKのニュースで放送しているなら、それが事実なのだろうと勝手に思ってしまっている。
悪いが、そういう権威的なものを信じてしまう心理が、詐欺師を呼んでしまうのだ。
権威が何を言おうと、それは一次情報とは限らない。
小泉元首相の郵政選挙は、結局なんだったのか。
痛みに耐えてよく頑張った、感動したと土俵の上で叫んでいたのは何だったのか。
おかげで、貴乃花は二度と土俵に戻れず、郵政改革は今やどこへ行ったのかの感がある。


最近、真実がネットの所為でか、ますます見えにくくなっている。
前は、テレビや新聞、ラジオで語られていることが、まがりなりにも真実と受けとめられてきた。
しかし、もはや何が真実かわからない、いや元々真実などという絶対的なものは、言語的に存在してこなかったのかもしれない。
神のみぞ知る、早い話、誰もわからないのだ。


つまり、ラジオの制作者の心得として、元々真実というのは曖昧なものだという自覚が必要ということだ。
少しでも曖昧さを取り除くためには、一次情報に接しようという態度を維持するしかない。
これでいいだろうと思った時から、真実は遠ざかると考えよ。
いわゆる無知の知。
人間が人間として生きる以上、真実とは曖昧なものである、そういう自戒とともに放送に携わることが肝要かと思うのだがいかがだろう。



シリーズ ラジオ制作者の心得(3)~一次情報に徹する・2

朝日新聞OBで古巣の局の偉いさんだった白木龍雄氏には、ジャーナリストの心得を色々と教わった。
社内での人間的評価は決して高かったとは言えない白木氏だったが、示唆に富む話は時々してくれたものである。
その一つに「マスコミに取り上げてもらいたかったら、それが一次情報であるということを主張しろ」というのがあった。
伝聞の話とか、誰かから聞いた話なんていうのは、例えば新聞記者には響かない。
書いてもらいたければ、そのニュースソースを連れて行け、あるいはそのニュースソースを具体的に示せということだった。
これは事件性がありなしという話ではない。
例えば、今度こういう番組を新聞で取り上げてもらいたければ、一次情報であることを思い切り主張したものにしろということだ。


整った資料、例えば印刷したものとか、ワープロで打ったものを持っていくなとも言われた。
全部手書きにしろ、それもコピーでなく、自分で実際に書いたものを持って行けと。
整ったものは、マスコミ人は見飽きている。
手書きで書いたものは、それ自体がオンリーワンというイメージがある。
どこのマスコミにも同じように出しているとは思えない、貴方だけに提出しているのだというメッセージが伝わる。
本気度も違って見える、と氏は言った。
なるほど、そういう一次情報という考え方もあるのかと思った。
マスコミは、こちらから持ち込むものは一次情報しか相手にしないのだ、多分そういうことなのだろう。
どこにでも出されたもの、例えば新聞に載った情報、雑誌で紹介された情報、それに放送で流された情報だけで番組を作るなという教えでもある。
きっかけは二次情報でもあってもいいが、そこからどう一次情報にたどり着くかに制作者のスキルが問われる。
どこにでもある情報を誰でもがする方法で紹介しても、誰の心にも刺さらない。
要は一次情報をどうちりばめるか、そこに人の納得が得られるのだ、多分そういうことなのだろう。


FMなら、やはり音楽には凝ってほしい。
ネットにある情報をそのまま紹介するのではなく、もっと一次情報に接近する努力が必要だ。
日本のアーチストなら、制作者にアプローチするのも重要だし、業界の重鎮とも情報交換するぐらいの気概を持ちたい。
海外アーチストなら、来日した時に少しでも時間がとれればと交渉する努力がほしいし、だめでも実際のメッセージを得られないかと関係者に働きかけて欲しい。
ゲストのブッキングだって、レコード会社からの依頼にただ応えるだけではなく、こちらから是非この番組に出てほしい、この番組にはこれだけのメリットがある、待っているリスナーがこれだけいるというぐらいの積極的なプロモーションも望まれる。
とにかく一次情報が番組の基本であると考えれば、そういう普段の努力が必要なことぐらい自明になるはずだからだ。


そう、ある洋楽番組を専門にしていた先輩ディレクターのことを思い出した。
彼は、まもなく会社が10周年を迎えることを見越して、1年ぐらい前から来日アーチストに片っ端からお祝いコメントを依頼し、デンスケ(取材用テープレコーダのこと)とマイクを持って楽屋を訪ねて行っていた。
外タレさんは、そういうことをあまり拒まない。
これもプロモーションだ、どうせ日本に来ているのだから、できるサービスは何でもどうぞというスタンスのようだった。
おかげで、10周年記念特番の時、ビッグタレントのお祝いコメントがキラ星のように流れたのだ。
今は、こんなこと誰かやっている?
社員ディレクターでない限り、こんなことを実践するのは困難かもしれない。
社員プロデューサーは、ここまで地道な努力はしないだろう。
彼らはただ管理しているだけ、外から持ち込まれるものは対応するが、自分でそれを構築する労力を使おうとはしない。


だいたい、番組なんか誰でも作れる、偉そうにディレクター面するんじゃない、という管理職が放送局に増えたような気がする。
自ら放送局のディレクターの位置を落としこめているとしか言いようがない上司だ。
本当に能力のあるディレクターの考えることは、単なる管理専門の上司とは根本的に違う。
その能力を発揮する機会を奪うな、本当の番組を制作する、それは神との対話からしか生まれないのだという想像力すら持てないものは、つまらない口出しをやめよ。


二次情報で番組を作ればいい、その方が安上がり、大した人材もいらないし、取材費も節約できる。
情報はリスナーからメールでもらえばいい、自分で探そうとするのは止めはしないが、残業代は払わんからな。
貧すれば鈍する。
ここには制作者の心得以前の世界が広がっている。
ラジオなんか誰でも作れる。
そんな、自らラジオを卑下する姿勢は、嘆かわしいと言わざるをえない。



シリーズ ラジオ制作者の心得(2)~一次情報に徹する

一回目のラジオの制作者の心得~半歩前を歩け、は皆さんからなかなかいい反応が返ってきた。
どうも私が教育を受けた時ほど、ラジオ局の中では常識になっていないようだ。
どういうことだろう、今、ラジオ局では何を教えているのだろうか。


二回目の今日は、一次情報に徹しろという話。
これはラジオ制作者もそうだが、ジャーナリストとしての鉄則というべきものだろう。
世の中には情報というのものが反乱している。
ネットでは嘘もまこともないまぜになって、日々様々に言葉があふれかえっている。
ネット・リテラシーという言葉も喧伝されているが、ジャーナリストなら当然身につけていないといけないことだ。
リテラシーなんて言葉、私の新人の時にはほとんど使われていない。
でも、学ぶべきことは同じ、ネットの時代であろうとなかろうとジャーナリストなら基礎的な素養の部分である。


放送で流すことには嘘があってはいけない。
これぐらいの内容のものなら、少々嘘を交えてもかまわないだろうという態度は厳に慎むべきことだ。
その気持ちが、こういう内容なら、どこそこに掲載されていたことが少々眉唾であっても放送していいだろう、それの方が面白いし、などといった安易な制作者を生む。
嘘を交えていいと思ったときから、制作者の気が緩むのである。
ラジオはまだいい、テレビなどは視聴率さえよければ、少々の誇張(早い話嘘)は当然みたいな話になっている。
視聴率のためには、一次情報でなくていい、二次情報で面白おかしく番組を作れ、みたいな風潮がどうしても出てくる。
もちろん、本当にそれでいいとは誰も思っていないだろう。
しかし、制作費は削られ、番組のオンエア日は迫るとなれば、一次情報がないがしろにされるのは十分推測される。
特にバラエティ番組の制作者、それに朝昼のワイド番組の制作者。
一次情報をどれだけ把握して毎日情報を流しているだろうか。
多分、他が流しているから、うちの局も一次情報は知らないが、とにかく流してしまえということだと思う。
赤信号、みんなで渡れば怖くない、なんだろう。
一局だけでやれば、その時、どんな反発が返ってくるかもわからない。
他の局もやっていれば、少々眉唾な情報でもついでに放送してしまう。
私が知る最悪の報道は三浦和義事件である。


結局、彼は殺人者だったのだろうか。
確かに怪しい面はあったのだろうが、マスコミは完全に彼を殺人者と認定し、それを認めない彼を毎日テレビの中でさらし者にした。
誰だって、ここまでマスコミが言えば殺人者だと思ってしまう。
一次情報など、どうでもいいのである。
イメージさえ一度作り上げれば、どうでもいいことさえその理由にしても誰も疑わなくなる。
悪者とレッテルを貼られれば、何をやっても悪者のイメージで解釈されるのだ。
客観的な事実ではない、その事実の解釈そのものが情報となって流れていくのである。
事実の解釈は、事実そのものではないことが多い。
解釈ではなく、単なる揣摩憶測の類だったりするが、それを補強するのがコメンテーターだったりする。
また、その解釈を拒み、客観的事実に戻ろうとするゲストは二度と呼ばれない。
もうイメージは決めてあるのだ、それを変更すれば視聴者が混乱する。
物事は単純化してこそ、情報として流通するし、人々も納得する。
今更、話を複雑にすることなどテレビ局にとっては自殺行為だ。
複雑に見えた時、もっと単純に物事を解釈してくれる他局に視聴者は移る。
早い話、ワイドショーは、物事をどれだけ単純化し、そのイメージを深化させることはあっても絶対に変えないという番組ほど成功するのだろう。
ここにはジャーナリズムのカケラもない。
放送マンの矜持も感じられない、多分、今やテレビは真実を知らせる義務よりも、視聴者を楽しませること、娯楽を与えることに特化しているということなのだろう。


長々とテレビのことを書いてしまった。
では、今ラジオは一次情報を前提に放送しているかどうか、それをしばらく考えてみたい。
愛想もなく言ってしまうと、その答は、NOである。
多分、一次情報は、出演者そのものに帰されることになっている。
だからラジオはややこしい話になると専門家が出てくるし、専門家が見つからない場合は情報を流すことさえしない。
ラジオと一次情報の話、長くなるので又次回に。
皆さんの意見など、引き続きお待ちしてます。