カテゴリー : 2012年 5月

シリーズ ラジオ制作者の心得~半歩前を歩け

今回から、しばらくラジオに従事する制作者が身につけておきたい心得みたいなものを紹介する。
どの放送局でも、OJTで教育されている内容だと思うが、1つのデータベースがわりに書き連ねておきたい。


私がFM大阪に入社した時、先人から強く言われた言葉が、「ラジオ制作者は、リスナーの半歩前を歩け」だった。
マスコミ人は、往々にして一般大衆より勝手に優れていると思い、自分は1歩前を進んでいるという思考、行動をしがちだ。
だが、大衆の支持の上にあってこそ商売が成り立つ放送業界には、その考えは危うい。
人々から見れば、そんな態度は、「鼻持ちならない」エリート意識であり、そういうラジオに対して心から共感することはできない。
上から目線は嫌われる、それが演出としてなされるなら、それも一つの表現だと人々は許容するだろうが、何の自覚もなく人を睥睨する態度を見せるなら、それを前提にしたビジネスなぞ端から成立しない。


こんな例を紹介しよう、FM業界ならありそうなことだ。
自分は音楽のことなら誰よりもよく知っている。
社内で一番、いや日本で一番詳しいかもしれない。
まわりで音楽の話をしている連中がどれだけバカバカしいレベルの話をしているか、いつも気になって仕方がない。
そういう時は、できるだけその誤りを訂正してやる。
間違った放送をしかねない連中を教育するのは私の役目だ。


いわゆる上から目線、自分は誰よりも上に立っていると信じているからこその考えだろう。
しかし、こういう態度の人は、社内でも嫌われる。
その人が権力を持っていれば、おべっかを言いにくる業界人はいるだろう。
人気番組のディレクターだったり、構成者だったりしたら、お説拝聴とばかりに利害関係者はやってくる。
だが、それはリスナーという大衆からは得られない。
上から目線は排除される、当たり前だろう、金を払っていなくても客は客なのだから。


1歩前に出れば、周りの人はすべて客観的に見ることができる。
大衆なんかバカばかりと思うかもしれないし、権力者なら、お前たちはオレの言うとおりにしていればいいのだ、と強く思い込むだろう。
しかし、商業放送はビジネスなのである。
ビジネスには、お互いのWIN-WIN関係が不可欠だろう、何故お前だけが優位に立てるのだ。
こういうラジオ人が出てきたのは、ラジオというメディアが人々の心をコントロールできる一面を持っていたからだ。
誰でもがラジオを使ってメッセージを送ることはできない。
一部の独占を許された勢力に、その権利は委ねられてきた。
それが、ある意味ビジネスを歪めてきたといえなくもない。
大衆から一歩前に出て、俺たちの言うとおりにしろ、おとなしく言われたとおりにラジオを聴け。
ま、そこまで本気では思ってはいないだろうが、今のように売上を維持するためには、リスナーが嫌おうと何しようと自分たちの都合を優先するという考えは、当然の帰結だったろう。


ラジオは、半歩前を歩け、というのは全ての放送局で行われてきたことではない。
むしろ、それが忘れられやすいから、あえてラジオ人の心得として繰り返されたのである。
一歩前を歩くな、それはリスナー(ユーザー)を排除しかねない。
同じように歩くな、よきパートナーであっても、私たちは保護者ではない。
半歩前を歩け、それはリスナーに寄り添いながら、日々共によりよく生きることを実現させる、ラジオの使命はそこにあると。
もちろん、これはラジオだけではない、今やテレビの方がその実現に努力することが求められている。


下手をすると、今の放送業界、大衆に向かってやっていることは、「嫌がるガチョウに、CMという餌を無理やり口の中に押し込み、見事なフォアグラを作って、それをクライアントに高く売る」ことかもしれない。
ラジオショッピングなんて、本当に食べたくないのに、無理やり口に入ってくる。
一体それで何が得られるのだろう・・・。


さて、このシリーズ、一体どういう展開のなるのか。
本当はもう少し教訓的な話を書くつもりだったのだが、別の方向に行きかけている。
ま、これもまたよきかな。



テレビ的ラジオなどいらない

ラジオに映像は必要か、それを正面から問いかけるラジオ局はない。
見えるラジオという言葉が喧伝され端末が発売された、その時にはある人たちは言った。
「これからはラジオも見えないといけない。」
そんなこと、リスナーは要望しただろうか。
「Video killed the radio Star」、往年のバグルスのヒット曲。
だからといって、ラジオスターがテレビによって駆逐されることはなかった。
ラジオはテレビとは違う世界で広がっていくことができるメディアだったからだ。


ラジオが見える必要はないのではないか、それよりももっと本質的なものがリスナーの心に刺さっていたのではないか。
その一つがサブカルチャーで、小世界を作れるメディアだということだ。
その自覚がラジオにあれば、ラジオの世界はテレビとは差別化されるはずだ。
何故にテレビに寄り添おうとするのか。
広告代理店がそうしろと言ったのか?


ラジオショッピングをやれと言ったのも広告代理店。
レスポンス広告をやれと言ったのも広告代理店。
パチンコのスポットを流せ、法律事務所のスポットを流せと言ったのも広告代理店。
いい加減、自発的に自分たちのマーケットを開拓しろよと言いたくなるが、それを受け入れてくれる経営者がいない。
私の話を聞いてやろうというラジオ局の社長、一体存在するものだろうか。


話を戻す、ラジオはテレビのような存在であるべきだろうか。
DRPの試験放送、皆さんはどう思っただろう。
あれは一部テレビのようなラジオだった。
スタジオにカメラが持ち込まれ、DJはカメラに向かって話をしていた。
あれは、ラジオか?
リスナーが望む形だったのか。
いや、元々そんなウォンツがリスナーにあったのか。
ラジオの供給者側に思い違いはなかったか。


私は、しばらくデジタルラジオに興味を持ち、マルチメディア・フォーラムの会員になっていたりしたのだが、途中でこれはダメだと思った。
ここには発想がない。
イノベーションは少数派の中からしか生まれないとういう自覚がない。
時の権力におもねったり、金を持っている勢力に寄りそうだけでは何の革新も生まれない。
なのに、ラジオ関係者は少数派を軽視し、力のあるもの、多数派を形成するものにすべてを委ねてしまった。
今のままでは、イノベーションは起こらない。
もっと新しい勢力、新しい発想をもった若い人材にメディアを提供しない限り、古いものが新しい衣装を着て現れてくるだけだ。
誰のニーズにも合わない、誰のウォンツにも従わない、ただ古いだけのファッション、そんなラジオに誰が何を望もうか。


繰り返す、テレビ的なラジオが今必要だと思っているなら、それは大いなる勘違いだ。
そんなニーズはどこにもない、ラジオの本質はそんなところにはない。
テレビではない何か、それがラジオなのだ。
私はその一つにあげたのが、サブカルチャーに支えられるラジオというメディア。
テレビの補完になれば、そんなものは要らないといつか言われるだろう。
ラジオはもっと積極的に主張できる何かがあるはず。
それを何故探そうとしないのか、ラジオの経営者の皆さんに問いただしたいぐらいである。



サブカルチャー路線の放棄?

前回紹介した村上龍さんの「逃げる中高年、欲望のない若者たち」、元々は「欲望のない若者たち」ではなく、「犠牲になる若者たち」だったようだ。
それが何故変わったのか、多分若者たちから自分たちが中高年の犠牲になっているという声が聞こえず、こいつらはもはやそんな良い生活をしたいとか、自分の好きなように生きたいという欲望がないのだ、そうでないとどうしてこんな状況に耐えられるのかわからないと村上氏自身が思ったからではないだろうか。
むしろ、欲望がないではなく、声を上げない若者たちとした方がよかったような気がするが、それではタイトルにインパクトがなくなると編集部が思ったのだろう。
正直いってこの本、若者はそれほど読まなかったような気がする。
一番興味を持つのは、逃げ切り世代のオッサンオバハンで、この層の耳目をひけばそれでよかったのではないか。

村上さんが最初の「草食系と肉食系というごまかし」という章で、こんなことを書いておられたので紹介する。

1980年代、「新人類」という言葉が流行って、そのときも私は苛立った。「新人類」というのがどういう人たちを指していたのかさえ、今となってははっきりしない。秋元康とか中森明夫とか泉麻人などが、確か「新人類」だった、と思う。3人ともすでに立派なオジサンで、どこにも「新」という面影はない。

そういえば、1980年代に筑紫哲也さんが朝日ジャーナルの編集長をされていた頃、「若者たちの神々」とか「新人類の旗手たち」とかいう連載をされて話題になっていたことを思い出す。
いわゆるポストモダン的な空気が日本の一部の知識人にもてはやされていた頃で、「新人類」というのも、本当に新しい人類という意味ではなく、それまでの価値観を保守する世代とは違ったポスト人類的な思考や行動を主張する若者たちを指して言った言葉だったのだろう。
ま、そういうポスト人類も今やオッサンオバハンなのである。
人類のど真ん中、地位と名誉の上で軽く胡坐を書いている感じのオジさんオバさんたち、個人的には糸井重里さんもそんな感じがするのだが、あまり言い過ぎると怒られるかもしれない。


ラジオの論考のところで、私はラジオこそはサブカルチャ-を核として、一時の人気を謳歌したと書いています。
シリーズ ラジオの生きる道(10)~サブカルとラジオ
多分、今の若者がラジオに求めるとしたら、それはサブカルチャーの権化みたいなメディアではないかと思うのだ。
多数派を狙った放送ではない、むしろ私のように結果として少数派的立場に自然に追い込まれてしまったような層をターゲットにする。
テレビのようなラジオにしてはいけない。
テレビではこういう風に取り上げられていますが、ラジオは全く別の取り上げ方をしています、という風に。
同じことを放送していたらテレビにとられるだけだ。
かといってネットみたいなラジオをやっていたら、情報的精度は落ちるだろうし、何か起きた時はそのことをもってサブカルチャーそのものが弾圧されてしまいかねない。
前に書いたが、ラジオが好きな人に向けて、ラジオが好きでたまらない制作者をラジオを使って日々発信することだ。
クライアントはラジオが好きで好きでたまらない方にお願いしよう。
中途半端な放送をしているから、若者はラジオに目を向けてくれない、耳を傾けてくれないのではないだろうか。


ラジオ的な位置づけは、多分ポストテレビ文化のカテゴリーの中で検討すべきものだと私は思う。
その一つの武器がradikoであってもかまわない。
文化論としてラジオを考えるべきであって、過去の蓄積されたノーハウの上にラジオを描くのはそろそろ抑制的にすべきではなかろうか。
サブカルチャー路線をラジオはいつ放棄したのかと、例えば私が問いかけても、今もラジオ関係者は多分こういうだろう。


ラジオはカルチャーだったし、これからもそうだ、自分たちをサブカルチャーだなどと思ったことはない。


所詮、彼らは多数派思考しかできないのだ、本当は少数派思考ができる人材を経営者に据えるべきなのに、相変わらず多数派におもねるものしか優遇されていない。
ラジオには未来はない、ラジオが消え去る日も近い、と私の業界の先輩は書いた。
今のままでは、確かにその危惧を禁じえないのは同感である。