ラジオマンの悲劇と喜劇(3)

私が愛読している古典に「徒然草」がある。
兼好法師(吉田兼好)の随筆集と言われている。
その56段に次のような言葉がある。

よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。

私は、ラジオマンならこの言葉を大切にしてほしいと思っている。
特に「人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから人も聞く」というのが、心に残る。
そこに何百人、何千人の人が集まろうと、一人の人に向かって話すようにすれば、自然にその他の人たちも耳を貸すと言うのだ。
とにかく、自分の言葉を皆に届けたいと思えば、抽象的な皆に語りかけるのではなく、具体的な一人に向かって語るように語れ、そうすれば他の人も何を言っているのだろうと耳を傾ける、そういうことだ。


新しくラジオの世界に入られることに、ぜひそれは告げておきたい。
マスに向かって語るなかれ、個人に向かって語れ、と。
その個人にあなたの心が届くなら、おのずから他の人にもその気持ちは伝わるのだと。


ラジオは、1%の人に向かって放送すべきだと私は前回書いた。
全体に語りかけるのではなく、少数派に向かって語れ、1%、いや、0.1%でも多いくらいだ。
基本は、誰か一人に語りかければいいのだ。
もちろん、その内容がその一人にしか理解できないものならば、別にラジオというメディアを使う必要はない。
今のSNSで十分だ、メールなり、LINEなりお好きな手段で伝えればいい。
だが、ラジオにはラジオの特性がある、それを通じてのコミュニケーションがあるはずだ。
誰か一人に語りかけることが、またそのメッセージがその一人をつかむことができるならば、自然とそのメッセージは他の人もつかむことができる、その構造をラジオが持っているということだ。
わけのわからない大衆に向かって、放送を漫然としていても、そのラジオは広がりを持たない。
もし、今ラジオを聞く人が年々減っているとするならば、そういう本来ラジオが持っていたコミュニケーションの構造を失いはじめたからではないだろうか。
一人をつかむことが、いつか多くの人をつかむ、その構造をもう一度ラジオマンは再認識すべきではないかと思うのだ。


営業を優先にすれば、その番組を始めた時から多くの人をつかんでいないといけない。
それは極めてテレビ的な発想だと思う、ラジオがいきなりリスナーを多数つかむなんてガラにあわないと私は思う。
仕方ないので、有名ゲストを呼ぶ、商品を豪華にする、番組自体を祭状態にするなんてことを、聴取率週間にあきもせず繰り返す。
しかし、ラジオは、テレビのようなハレのメディアではない。
日常、ケ、それを愚直にフォローしていくから、ラジオに人々は愛着を得てきたのではなかったか。
愚直に一人一人に語りかけて行く、今生きている人々に辛抱強くメッセージを届ける。
その結果が、多くのリスナーをつかみ、広告媒体としても機能していくものなのだ。
第一回から大人気、そんなものテレビに任せておけばいい。
小さなことからコツコツと、それでいいではないか、俺たちはラジオなんだから、いきなり多数を狙うなんて、そんな発想は少しやめてみないか、一人一人への語りかけを始めてみないか、「一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞く」、その言葉を考えてみないか、今のままを続けていても、これからどうやって次代のラジオに展望を見いだせると言うのだろうか。


などと、あまり具体的な例を出さぬまま、ラジオについて書いてしまった。
ちょっとラジオ番組の具体例について、今後書いてみようか、そのコンテクストを通じて、何か法則性が新たに見えるかもしれない。
(もちろん、見えないかもしれないけどね。)
ということで、今回はわけわからない話になったかもしれないけど、ご批評、ご意見など、まだ送っていただければ。

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